空の果てまで

 

              第四話                         はじめて握る操縦桿

 

 翌朝。

 格納庫のシャッターが開く音が鳴り響く。

 こんな朝早くにこんなはた迷惑なことをする人物はただ一人。紫苑しかいなかった。

「ソラ、早く起きろ」

 朝日が差し込む格納庫。

 紫苑はまだ電源の入っていないソラに向かって叫んだ。

 駆け寄って、コックピットの電源ボタンを押す。

メインモニタに表示される、おなじみの鳥の翼と英語のロゴマーク。

Tomorrow-Wings社のロゴである。

電子音とともに、コックピット内に取り付けられた内部カメラが紫苑の姿を走査する。紫苑は昨晩の飛行帽を被りゴーグルを左手に持っていた。

「おはようございます。マスター」

「おはようございますじゃない。何をゆっくり寝てるんだ」

 紫苑が畳み掛ける。

「マスター、私は眠っていたわけではありません。電源が完全にオフでしたので、スリープモードだったわけでもありません」

「ああ、悪かった。とにかくすぐ出かけるぞ」

「何か急ぐご用事ができたのですか? 今日は日曜日で、マスターのスケジュールに予定は入っていませんが」

「何言ってるんだよ。俺は昨日、航空局管理センターまで何しに行ってきたんだ?」

「制限免許から通常免許への更新です」

「そう。それはつまり?」

「制限免許から通常免許への更新によるメリットは、飛行の際の許可申請が不要になること、また、通常免許を取得して三年以上になる人間の同乗が不要になることです」

「よくわかってるじゃないか」

「はい」

「これからは俺はソラと自由に空を飛べる。だから、今すぐ飛びに行くんだよ。これが俺たちの初飛行だ」

「了解しました」

 紫苑がゴーグルを装着した。

 

 外回りのチェックを済ませた後、紫苑はコックピットに乗りこんだ。

「バッテリーチェック。機体ダメージゼロ。メインモニタチェック。高度計チェック。方位計チェック。ラダー、エルロン、フラップ、エレベータ、すべて動作確認。その他信号確認」

 モニタや計器類をひとつひとつ点検する。

 紫苑は、ペダルや操縦桿に合わせてはためく翼たちの動きが、いつも何だか可笑しくて好きだった。

「オーケーです。マスター」

「ようし、IDスティック、オーン!」

 紫苑は振りかぶって、差込口に新品のスティックを差し入れた。

 コックピットに乗っている間の紫苑は、出会ったばかりのあの頃とまるで変わらなかった。

ID認証。飛行モードへ移行します」

 プロペラがゆっくりと回りだす。

 外部ではほとんど無音のプロペラ音も、コックピットの中でははっきりと振動として伝わってくる。この振動が、紫苑は好きだった。

 左手でスロットルをいれる。

 プロペラが徐々に回転数を増す。同時に音も大きくなる。

「ブレーキ解除」

 言いながら、紫苑が左手をレバーから離し、横のパーキングブレーキを押し下げる。

 プロペラのトルクで曲がろうとする機体をラダーで直線に戻しながら、どんどんスピードを上げる。

 体がシートに押さえつけられる。

 さらにスロットルを入れていく。

 速度計をチェック。

 そのまま右手でゆっくりと操縦桿を手前に引く。

 ぐっと飛行機に力が加わる感触が伝わってくる。

「離陸します」

 ソラの声。

 その一瞬後に、ずっと聞こえていたタイヤの転がる音が聞こえなくなり、腹の底から浮遊感がやってくる。

 そのまま加速を継続しつつ、機体の姿勢の調整を行う。

「安全離陸速度を通過しました。上昇を継続して下さい」

「了解」

体はまだシートに押さえつけられたままだ。紫苑はギア(タイヤ)を翼に収納した。

 しばらく上昇を続けた後、十分な高さを確保し、水平飛行に切り替える。

「よし。オッケィ」

「お疲れ様です。マスター」

 メインモニタの表示が離陸モードから巡航モードに変わった。

「疲れてなんていないさ。もう何百回と飛んでるんだ」

「そうですか。目的地はどこに設定しますか? マスター」

「決めてないな。とりあえず東に向かって飛ぼう。朝陽が綺麗だから」

「了解しました」

 紫苑のゴーグルに朝陽が一瞬反射する。

 ぐんと右にロールして、紫苑は東へ航路をとった。

 加速。

 モーターが嬉しそうに唸りを上げて、紫苑を乗せて東の空へ飛んでいった。

 

 地上から飛び出してきてだいたい一時間といったところだった。

 出る前に時計を見てこなかったから、正確な時間はわからなかった。ソラに尋ねれば秒数まできっちり答えてくれるかもしれないが、そんな必要は無かった。バッテリーの残量は常にメインモニタに表示されている。そんなに時間に神経質になる必要は無い。

 視線を下へ向ける。

 既に結構な距離を飛んだようで、普段あまり見ないような町並みが眼下に広がっていた。

 海とは逆方向だ。

 視線を少し前へずらすとだんだん地面の高度が上がり、山の斜面に合わせて住宅が田や畑へと変わっていく。

 山の稜線が朝の澄んだ空に映える。その横には朝の若々しい太陽が浮かんでいる。

「ソラ、巡航モードでそのまま飛んでくれ」

「自動操縦ですか?」

「ああ」

「了解しました」

 紫苑が操縦桿から手を離す。

 もとからほとんど寝ているようなシートのリクライニングを下げて、そこに寝転がる。

「珍しいですね。マスターが自分で操縦しないなんて」

「たまにはそういう気分になるときもあるのさ。ゆっくり飛んでくれていいよ」

「了解しました」

 紫苑は腕を頭の後ろに回して、上を見上げた。

 一度眼を瞑る。

 細やかな振動とともに、唸るようなモーターの音が耳元で鳴っている。

 空を飛んでいる間は、音が命だ。

 モーターの唸る音。プロペラが風を切る音。機体のびびる音に、突風の接近。

 どんな小さな音も聞き逃してはならない。

 機体の不調にいち早く気づいて迅速にそれに対処する。

 それが、自分を乗せて空に連れて行ってくれる飛行機への精一杯のお礼だと、そう紫苑は考える。

 もういちどゆっくりと眼を開ける。

 磨かれたキャノピー越しに広がる、まだ少し朝焼けの余韻を残した空。

 飛んでいるときの方が地上にいるときより、空がうんと近くに見える。

 千切れ雲の千切れ方もよくわかるし、陽の光をたっぷり受けた雲の温かさまで、手を伸ばせば感じられそうな気がした。

 いつでも空の上にあって決して尽きることのない、無数の雲。

 ただのひとつも同じ形のものは無くて、一瞬先にも一瞬後にも少しも姿が変わったようには見えないのに、ずっと見ていると、いつしかまるで別物のように形を変えてしまっていて、もう先ほどの姿を二度と目にすることは無い。

 その一瞬一瞬の創造と破壊で、空は廻っている。

 空だけではない。この地球上のすべてのものが、そうして廻っている。

生命も同じだった。

 ただのひとつも同じ命は無い。

 そしていつしか成長し姿を変えていき、老いて死ぬ。二度と戻ることは無い。

 目に見えないほど小さな細胞のひとつひとつが、創造と破壊を繰り返し、その命を紡いでいく。

 生があるということは、その先には滅びがある。

 けれど破壊が、滅びが美しいのではない。

 滅びるときが来るから、命ある今を輝ける。

 破壊があるからこそ、創造がある。

 それが美しい。

 その終わらない限りない無限の力を、紫苑は空にいるとき、全身に感じている。

 だからこそ紫苑はこの空を。この雲を。どこまでも愛しく想っていた。

 なのにどうして人間はあんなにも汚れているのか。

 紫苑はずっと、誰よりも正直に生きてきた。

 情熱に対して。

 欲望に対して。

 自由の意味と責任に対して。

 自分自身に対して。

 命に対して。

 なのに地上で出会うほとんどの人間は、みんな自分を偽っていた。

――どうしてそこまでして、あの灰色の空気の中で生きなければならない。

 自分を偽り、他人を偽り、そうして生きていくことが大人になるということなら、ずっと子供のままでいい。それを子供の戯れ言と笑うなら、そんな汚れた地上にいる意味なんて無い。

やっぱり地上にあるものは全て、空気も人も、空から落ちてきたのだ。

空にある空気はこんなにも透明で澄んでいるのに、地上に沈んだ途端にあんなに汚れてしまう。それは人間とか社会とか、そんなものの汚れを吸ってしまうからだ。けれどきっとそれをしないと、地上はもっと汚れていくんだろうな、と紫苑は思う。

そしてその空気は二度と空へは戻って来れずに、そこで永遠に滞留する。

そして人も同じ。

――きっと空で消費された希望とか夢とか輝きとか。そういったものの 燃えかす ( ・・・・ ) を集めて練って固めたものが人間なんだ。だからあんなに汚れているんだ。そうでなけりゃ、 ふるい ( ・・・ ) にかけられて、選ばれなかったモノたちのかたまりなんだ。

 紫苑は空の向こうに思いを馳せつづける。

 紫苑は父がいなくなったあの日、強く生きると決めた。

 そしてその覚悟のもとに強く生きてきた。

 強く生きることを意識しすぎて、誰にも甘えず生きてきた。

 紫苑の姿は、切れすぎるナイフのようだった。

 あまりにも強く痛々しく、いずれ誰も近づかなくなる。そしてそんなナイフは、驚くほどに脆い。

 それが紫苑の哀しみであった。

 もし幼かった紫苑に他に誰か頼れる者が在れば、紫苑の心は今とは違ったかもしれない。

 けれどそんなことは誰にもわからない。

 最初は少し気になるだけだったその地上の汚れも、成長して物事がわかるようになるとどんどん大きくはっきりと眼に映るようになり、とうとう耐えられないほどに大きくなった。

そんな汚れが蔓延る現実にうんざりして、紫苑は他人を信用することを止めた。

そして他人や地上のことに関する全ての興味を失った。

だから紫苑が信じられるのは、家族とソラと、そして操縦桿を握る自分の両手だけ。

紫苑が心を許せるのは、家とコックピットの中と、空の上だけ。

紫苑が情熱を注ぐのは、真紅の翼と空で踊ることだけだった。

 

「前方二時の方向。距離二キロメートル。地上で大量の生物反応。動物が多数と、人間が一人です」

 突然のソラの声に、遠くに飛んでいっていた紫苑の意識がコックピットに戻ってくる。

「はあ?」

 紫苑が起き上がって右側のキャノピーに張りついて地上を見下ろした。しかし雲に邪魔されてよく見えなかった。

「ソラ、高度を下げてくれ」

「了解しました」

 声と同時にゆっくりと機体が右にロール。同時にラダーが右に動く。

 機体は斜めに傾いたまま見えない空気の滑り台を一気に滑るようにして足元に見えていた雲に突っ込んだ。

 ずいぶん高度が下がった頃に、眼下に広大な草原とその周りを取り囲む森林が広がった。とは言っても、紫苑の家のまわりのような手つかずの自然ではない。人間が手を加えて綺麗に環境を整えてあるようだった。

「自然保護区の森林公園じゃないか。一体――」

 言いかけたとき、紫苑の眼に例の生物反応が飛び込んできた。

「はあ?」

 紫苑は再び間抜けな声を上げた。

 なるほど確かに多くの生物反応だった。

 群れを成して走る多数の獣。自然保護区では珍しい光景では無かった。そしてその百メートルほど先を走る、一人のヒト。

「なんだあれは?」

 数秒その光景を眺める。

 どうやらその人影は、後方で走る獣の群れから逃げているようだった。

「スキャニングの結果、自然保護区に生息している保護観察対象の動物に民間人が追われているようです」

「見りゃわかるよ」

「動作、スピード、体格から判断して、十代後半の女性のようです」

「子供じゃないか。何やってんだあんなところで」

「そのデータは走査できませんでした」

「まあいい。発見してしまった以上、放っておくわけにもいかんだろう。ソラ、降りるぞ。運転返してくれ」

「了解しました」

 紫苑が操縦桿を握る。

 機首下げ。

ロール。

一気に近づく。その人影めがけて。

 どんどん人影が大きくなる。

 なるほど後姿は少女だった。栗色の長い髪を必死に振り乱して獣の群から逃げている。

 それでも人間の脚では獣に敵うはずがない。

 もう身体も限界なのだろう。脚がもつれそうだった。

見る見るうちに少女は距離を詰められていく。

時間は、無い。

「ソラ、できるだけ速度を維持したまま地上近くまで突っ込む。落ちる直前に腹を起こして速度を殺して着陸。滑走はほとんどしない。できるな?」

 紫苑が叫ぶ。

「問題ありません。マスター」

「よし。俺がやる。サポートを頼む」

「了解しました」

 右手に操縦桿。

左手にスロットルレバー。

両足はラダーペダル。

全神経を、指先まで全身に張り巡らせる。

ゴーグルの中の紫苑の瞳が、射抜くような鋭い光を放つ。

「いくぞ」

 呟いた。

 急降下。

 全身に加わる力。

 自由落下。

 重い操縦桿を握る手に力をこめる。

フラップ。

 限界速度を超えてはならない。直前で失速できるぎりぎりのラインだ。

 機体の調整は、一瞬もためらってはならない。

 一瞬毎に近づく地表は、決して待ってはくれない。

――ここだ。

 機首上げ。

重い。

 同時にエレベータ。

 機体が進行方向に垂直に機首を上げ、腹を向ける。

 轟音。

うちつける風。

唸るプロペラと翼。

すぐに機体調整。ギアを出す。ソラのサポート。

ミサイルのように落ちてきた機体はそこで轟音とともに失速し、後ろのギアから見事に着地した。

着地点は少女の真ん前。

飛行機の降り立った突風に、少女は顔を腕で覆った。髪が乱れ靡く。

腕を退ける少女。

走りつづけたための苦痛と、突然現れた 真っ紅 ( ま か ) な飛行機に対する困惑の混じった表情。

紫苑がキャノピーを開く

「乗れ、早く!」

 紫苑が叫ぶ。

「は、はい」

 少女が慌ててソラにつかまる。

 少女は脚をばたつかせながら、コックピット右側の副機長席に転がり込んだ。

 キャノピーを閉める。

 飛行機に驚いているのか、後方の獣に動きは無いようだ。

「離陸だ、ソラ」

 叫ぶ。

「了解しました。マスター」

 スロットル。

 再び急加速。

 足場の悪いごつごつした草原をいきなり猛スピードで駆け抜ける。

 速度計をチェックして、機首上げ。

 飛行機は無事空へ舞い上がった。

 紫苑が体を捻って後ろを振り返る。

 少し遠くに見える、獣の群の姿。

 紫苑はその獣たちの顔をじっと見つめると、再び前へ視線を戻した。

 紫苑も少女も、二人とも肩で大きく息をしていた。

 しばらくしてから、少女は額の汗を拭って口を開いた。

「あの……助けてくれて、ありがとうございます」

 息も絶え絶えの苦しそうな声だったが、何とも柔らかな綺麗な声だった。

「まあ放っておくわけにもいかないからな」

「森林公園に朝の散歩に出かけていたんですけど、鹿に餌をやったら、次々に色んな動物たちが集まっちゃって。それで追いかけられていたんです」

 紫苑は少女の方を振り返りもせず、ギアを収納し、水平方向に切り替える。

「……鹿に山羊に羊。一番凶暴そうなので中型犬くらいの犬。草食動物に追われてる人間を、俺は初めてみたよ」

「え……あ……ごめんなさい」

 視界の端で少女が俯く。

 紫苑は少女の方を振り向いた。

 綺麗な少女だった。

 乱れてはいるが、艶のある栗色のロングヘア。

 その間からのぞく耳は真っ赤で、小さな横顔も真っ赤だった。

 恥ずかしそうに俯いたままだ。

両手を膝の上で握り締めている。

紫苑は左手でシート脇に置いてあったタオルを手に掴むと、少女に放り投げた。

投げるといっても、コックピットは大して広くない。大の大人が二人並べば、実際にはぶつからないように設計されているはずだが、肩がぶつかりそうで狭いだろう。紫苑はさほど大きくは無い。少女も同様だ。二人の距離は自動車のそれより少し近いくらいだった。

タオルが少女の膝の上に落ちる。

「悪かった。馬鹿にして。思ったことをそのまま言っちまうんだ。髪にいくつか葉っぱが絡まってる。取りなよ」

「あ、ありがとう」

 少女ははっとして紫苑を振り向くと、タオルを手に取って髪を拭いた。

 柔らかそうな髪がタオルの間を滑る。

 揺れた少女の長い髪が紫苑の肩に触れる。

 ふわりと、かいだことの無い匂いが鼻孔をついた。

 おそらく少女の髪の……シャンプーか何かの匂いだろう。

 ソラには普段、ほとんど紫苑しか乗らない。

 紫苑の服も、手袋も帽子もゴーグルも、そしてコックピットのシートにも、全て紫苑の匂いが染み込んでいる。

 そしてその紫苑の匂いしか、コックピットには存在しない。

 まるで自分の体の一部だ。

 だからこうして突然違う匂いがコックピット内に侵入してくると、まるで自分が突然違う場所へ飛ばされたような違和感に襲われる。

 妙な異物感。

 嫌だとか気持ちが悪いとか、そういう事ではない。ただただ違和感に襲われるのだ。

ただ、今鼻をくすぐるこの香りは、不思議と嫌いではなかった。

 少女が髪を吹き終わって、タオルを手渡してくる。

「ありがとう」

「ああ」

 少女の真っ直ぐな瞳が紫苑の顔を見ている。その視線を感じる。

「東城君……だよね?」

 名前を呼ばれて、紫苑は再び少女を振り返った。

「どうして俺の名前を知ってる」

「あ、ご、ごめんなさい」

 少女がびくっと肩を揺らした。

 どうやら睨んでしまったようだ。

 睨んでいるつもりは無かったのだが、目つきが悪いとはよく言われることだ。

「会った事、あったかい?」

 紫苑が訊き返す。できるだけ、柔らかくだ。

「私、クラスメイトの米沢 ( ) ( ) って言うんだけど。知らない、かな」

 少し申し訳なさそうに眉をひそめながら、少女はそう尋ねた。

 紫苑は優姫の顔をじっと見つめる。

 数秒見つめながら、普段顔を合わしているアカデミーの面々を脳裏に走らせた。

「ごめん。わからないな。俺はもともと他人の顔を覚えないからさ」

「そっか。ううん、いいの。私も目立つ方じゃないし」

「えっと……名前、何て言ったっけ」

「米沢優姫」

「米沢は、選択過程は機械科か?」

「うん。機械科の航空専攻。東城君と一緒だよ。通常過程でも同じ教室」

「そうか。覚えておくよ」

「うん」

 紫苑が前に向き直る。

 沈黙。

 視界の右端で時々動く彼女の左腕。

 右耳が捉える、規則正しい彼女の呼吸音。

「……」

 そういえば、もうずいぶん長い間、隣に人を乗せて飛んだことなんてなかった。

「米沢は……」

 紫苑が口を開く。

「あ、優姫でいいよ。長くて言い難いでしょ」

「優姫は、空が好きか?」

 どうしてこんなことを訊いたのか、自分でもわからなかった。

「それは、飛行機で空を飛ぶこと? それとも、地上から空を見上げるってこと?」

「両方」

 再び沈黙。

「地上から空を見上げるのは好き。たったの一度も同じ姿に戻ることは無くて、ずっと変わり続けてる。その中で太陽の光や雲たち、それから無数の星が描くあの景色に、いつも心が洗われる。空は自然のカンバスなんだな、ってよく思うわ」

「……」

「ごめんなさい。何言ってるんだろ私。おかしいよね」

 優姫が慌てたように付け加えて、下を向いてしまった。

 やっぱり横顔が真っ赤だ。

――今の言葉のどこに恥じる要素があったのだろう。

 紫苑は思う。

「俺もだよ。同じ事をよく思う」

「本当?」

 優姫が顔を上げる。

 紫苑の言葉が予期せぬものだったのか、その顔には驚きと少しの喜びの表情が見て取れた。

「ああ」

「こんなこと言ったら馬鹿にされるかと思った」

「どうして」

「だって、おかしいじゃない。空が自然のカンバスだなんて詩人みたいな言葉。何を格好つけてんだって、誰だって馬鹿にして笑うよ」

 聞こえるか聞こえないかほどの、小さな優姫のため息。

「だけど、あんたはそう思ってるんだろう」

「うん」

「なら、それでいいじゃないか」

 優姫はそれきり黙ってしまった。

――何かおかしなことを言ったろうか。

 紫苑は一瞬そんな思いを巡らせたが、すぐに止めた。他人がどう思おうが自分には関係ないからだ。

「空を飛ぶのは?」

「え?」

「両方って言ったろ。まだ片方聞いてない」

「ああ」

 優姫が思い出したように頷いた。

「わからない、かな」

「わからない?」

「うん。実は私、空を飛ぶのこれが初めてなんだ」

「そうなのか」

「うん。だからほら、ちょっとまだ震えてる」

 紫苑が優姫の脚に眼をやる。

 かすかな震えが見て取れた。

「高所恐怖症?」

「ううん、違う。ただびっくりしてるだけ」

「そうか」

 沈黙の後、紫苑は優姫の方へ手を伸ばして、コックピットの外を指差した。

「下を見てみな。綺麗だよ」

「え?」

 優姫が紫苑の指に導かれるようにコックピットの外へ眼をやる。キャノピーへ手をつき、下を覗き込んだ。

「わあっ」

 優姫が隣で息を呑んだ。

 紫苑も下を見る。

 眼下に広がるのは、広大な農園だった。

 秋。

 黄金色に輝く稲穂の海が、遠くまで広がっている。

 山の斜面を滑り降りてきた風を受けて、稲穂の波がゆらゆら揺れる。

 その度に揺らめく黄金色の光で、頬まで温まるようだった。

「どうだい」

「凄い!」

感動したように大きく口を開けて辺りを見渡す優姫。

紫苑がくすりと笑う

「飛んでみるかい?」

「え?」

 こちらを振り返る優姫。

「自分で操縦してみるかい?」

「そんな、だめだよ。私、免許も持ってない――」

 優姫が顔の前で両手を振る。

「いいからいいから。ほら、操縦桿握って」

「あ……え……でも私、やったことないから」

「大丈夫だよ。計器類は俺が見ててやるから。ほら、俺はもう放すぜ。早く握らないと墜ちるぜ」

慌てて操縦桿を握る優姫。

「冗談さ。大丈夫。俺用に少し重くしてあるから、簡単にグラグラ動くことはないよ。落ち着いて動かせばいい。計器類は俺に任せろ」

「う、うん」

「操縦の仕方は知ってるよな?」

「うん、少しは」

「オーケィ。じゃあ、少しずつ右にロールして……操縦桿を……そう、右に……そうだ。ゆっくりと……そうそう」

 優姫は緊張した面持ちで両手でしっかり操縦桿を握ると、体ごと倒した。

 華奢な彼女には、紫苑向けに調節した重さの操縦桿は動かしにくいかもしれない。

 だが、安定した飛行状態で操縦桿だけに集中するなら、飛行機の操縦はさほど難しくはない。計器類にしたって、今はディスプレイを使用したグラスコックピット化が進み、以前よりも計器が統合され総計器数が減少している。

 実際ソラのコックピットでは、巡航モードではメインモニタ以外に気をつけなければならない計器は三つほどだけだった。

 紫苑はそれらに目を通しながら、優姫の動作を見守った。

「手前に引いて機首上げ……そうそのまま回って……広い場所へ抜けよう……よし、左へロール、戻して……うまいうまい!」

「あ、ありがとう」

 紅潮した優姫の顔。

 困惑した中に浮かぶ、ほころんだ柔らかそうな頬。

「よし、それじゃあとっておきだ! ソラ、ループのサポート!」

 紫苑が叫ぶ。

「よし! スロットルあげて、今だ! 操縦桿をめいっぱい引け!」

優姫が言われるままに思いきり操縦桿を引き込む。

ぐんと全身に負荷がかかり、突然視界がてんで別な方向を向く。

向くのは、天だ。

一回転。

耳を突くような優姫の叫び声。

長い長い叫び声。

その叫び声は、宙返りが終わって再び水平に落ち着くまで続いた。

 コックピット内では、高らかな紫苑の笑い声と、操縦桿を握り締めたままで固まっている優姫の荒い呼吸が響いていた。

 

「どうだい、自分で飛ぶと気持ちいいだろ?」

「う、うん」

「はは。無理しなくていいぜ。怖かったろ?」

 紫苑が再びタオルを手渡す。

 優姫はやっと操縦桿から手を放すと、タオルで汗の浮かんだ顔を拭った。

「うん。でも、すごく気持ちよかった」

「そっか。ならよかった」

 短い沈黙。

「東城君」

「紫苑」

「え?」

「紫苑でいい。長くて呼び難いだろ」

 紫苑がゴーグルを外す。

 優姫を射抜く紫苑の眼光に、もう濁った光は見えなかった。

「うん。……紫苑君は、もっと冷たい人かと思ってた」

「……」

「アカデミーでも全然喋らないし、いつも鷹みたいな眼で何かを睨んでるし。なんだか……そう、孤高って言葉が凄く似合う感じ」

「そうか」

「ごめんね?」

「そう見えるんなら、そうなんだろうさ。目つきが悪いってよく言われるから」

「でも悪いのは目つきだけだね」

「どういうこと?」

「そういうこと」

 優姫はふふっと笑って、前へ向き直った。その顔にはもう困惑も恐れも無く、柔らかそうな微笑だけがその頬を染めていた。

 紫苑はわけがわからず優姫を見ていたが、きっかり二秒で考えるのをやめて操縦に戻った。

「とにかく送るよ」

「ほんと? ありがとう」

「家の近くに降りれる場所はあるかい?」

「うん。すぐ近くに滑走用の広場があるよ」

「そうか。じゃあ案内してくれ」

 スロットル。

 

 優姫の家に着いたのは十一時頃だった。

 別に寄り道していたわけではなく、まだ空に不慣れな優姫がゆっくり飛んでくれと言ったからだった。

 優姫が指定した場所にそっと着陸する。

 すぐ近くだから後は歩いていくと言って、優姫が翼から飛び降りた。

「それじゃあ、気をつけてな」

 紫苑もコックピットを出て翼の上に膝をついた。

「うん。紫苑君、さっきの意味ね……」

「ん、何が?」

「ううん。やっぱり何でもない」

 優姫は短く「ばいばい」と言うと踵を返して、そのまま三軒目の家の角に消えていった。

 紫苑はコックピットに戻りキャノピーを閉じて、再びソラを舞い上がらせた。

 コックピット内には、紫苑のものとは違う匂いがまだ漂っていた。

 

 結局、予定していたバッテリー量を全て使い切るまで紫苑は飛びつづけて、家に帰ってきたのはやはりうっすら空に朱がかかった頃だった。

 格納庫で、紫苑はソラの翼に腰掛けていた。

「今日、あいつ楽しかったかな」

「ユキですか?」

「ああ」

「おそらく楽しんでいたでしょう。あの言葉は本心だったようです」

 心拍数や発汗量、瞳の動きからの判断だそうだ。

「そうか。よかった。悪いことしたかと思ってさ」

 紫苑は帽子を脱いだ頭を左手で掻きながら言った。

「マスター。操縦後のユキの体温及び心拍数が、著しく上昇していました」

「そりゃあ、初めて操縦桿を握ったんだ。ドキドキするさ」

「加えて目の動き、瞳孔の開き具合、ならびに息遣いや頬の筋肉の動き……表情にも、同様に変化が見られました」

「すごく感動したかすごく怖かったか、或いはその両方だろう。色んな人がいるし、初飛行なんて、みんなそんなもんさ」

「いえ……あれは……。いえ、なんでもありません。そうですね。マスターも初飛行は心拍数が異常な高さでしたから」

「俺のは、純粋に感動してるんだよ」

「ユキも、おそらく喜んでいたでしょう」

「だといいけどな。今日はもう家に戻って飯食って寝るよ。明日の朝早めにアカデミーに行って、課題を終わらせないと」

「了解しました、マスター」

「ああ。風邪ひくなよ」

「私は風邪をひきません。マスターも、お体にお気をつけ下さい」

「ああ、ありがとう」

「では、おやすみなさい、マスター」

「おやすみ、ソラ」

紫苑は電源スイッチを押すと、ゆっくりと格納庫を出て行った。

 

 
 

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