空の果てまで

 

              第一話                         マスター

 

 四年の月日が経つのは、あっという間だった。

 紫苑は毎日ソラに会いに行った。

 他の用事を全部放り出して格納庫へ行くので、母が格納庫の鍵を隠したことがあったが、それでもすぐに見つけて毎夜こっそり格納庫へ忍び込んだ。

 寝る間も惜しんで、夢中で本を読み漁った。

夜遅くまで机に向かって電気スタンドの明かりを点けているため最初は里香も嫌がったが、しばらくすると二人で並んで読むようになった。

四つも年上の里香は既にそれなりに勉強していて機械に詳しいのではと紫苑は思ったが、後から尋ねると、飛行機のことは自分も全く知らないと言っていた。

 もっと知りたかった。

 機械のこと。電気飛行機のこと。操縦の仕方に整備の仕方のこと。コミュニケーターのこと。ソラのこと。

 本だけではわからないことは、父とソラに直接尋ねた。

 父がソラに乗るときは、必ず隣に乗った。

 左側の機長席で操縦桿を動かす父の動きを真似て、モードがオフになっている右側の操縦桿を一生懸命動かした。

 空から見下ろす田舎の景色は最高で、何度飛んでも何度降りても、飽きることはなかった。

 十四歳になったとき、紫苑は電気飛行機の制限免許を取得した。

 電気飛行機の操縦免許は、一般的に制限免許と通常免許の二種類に分かれる。

制限免許は十四歳以上なら取れる免許であるが、飛行時の条件があり、通常免許を持って三年以上経つ、親や兄弟など十八歳以上の人間の監修の元でしか飛行してはいけない。

また飛行の際、小さい子供の操縦は危険なので、毎回管制塔に飛行許可を求める必要がある。しかしながら、比較的広い敷地があれば自宅からでも飛ばせる小型電気飛行機であることと、国が一般への電気飛行機の普及を望んでいることから、この作業も至極簡単なものだった。こういう面倒な手間を、一般人は最も嫌うからだ。

十八歳で取得できる通常免許ならこういった面倒な手間も一切不要で、大人が普通に自動車を走らせるように飛行機を飛ばすことができるようになるのだが、それは紫苑にはどうしようもなかった。

免許を取ってからというもの、紫苑は休日の度に父親を無理やり起こしては、日が暮れるまでソラを飛ばしたがった。

父親もそんな紫苑に協力的で、二人で日が暮れるまで空にいたときは、家に帰って母親に一緒に叱られた。

そんな風にして時間が流れるうちに、コミュニケーター……つまりソラにも変化が現れた。

初めは何を聞いても同じ返事をし、飛行時のサポートをするだけだったが、徐々に記憶しているデータが増えていくにつれて、全く関係の無い事項を扱えるようになったり、様々な事象を連鎖的に思考する術を身につけていった。

まるで人の心を真似ているかのように。

そもそもコミュニケーターというのは、電気飛行機に必ず搭載されている、アシスト機能のインターフェイスの名称である。

飛行における複雑もしくは高度な動き……一般人向けに考えると離着陸の仕方や細やかな方向転換などを行う際に、人間の負担を軽減するために働くコンピュータ制御のアシスト機能。それを制御するのがコミュニケーターである。

その上コミュニケーターには学習能力があり、パイロットの苦手な動作や頻繁にする動作などを動作プログラムファイルとして記憶して、どんどん便利で簡単になるようにリアルタイムでサポートしてくれるといった優れものであった。

また電気飛行機にはコックピット内にカメラやセンサーが設置されており、コミュニケーターと連動して、ユーザー認証に使われたり、サーモグラフィーでパイロットの状態異常を察知したりする。

また外側にも同様のセンサーやカメラがあり、通常のレーダー以外にも、自分の周囲の熱反応や不審物の接近を感知する機能がある。

まさに至れり尽くせりである。

これらのこと……特にコミュニケーターの飛行サポートが、操縦の難しい飛行機が一般人に普及するようになった、一番大きな理由であると言える。

またパイロットは操縦桿とラダーペダルなどで既に手足が塞がっているため、コミュニケーターは、高性能な言語認識機能によりパイロットとの会話で機能する。

ソラに変化が生じたのは、おそらく紫苑との会話が原因であった。

毎晩のように交わされる紫苑とソラの会話は、電気飛行機の構造の話に留まらない。

紫苑自身のことや好きなものの話、日々の出来事……。黙って話を聞いてくれるソラが、紫苑の悩みの相談相手であったと言えるかもしれない。

そういった飛行とは無関係なデータを大量に扱うことで、元々想定されていないデータ処理の仕方、演算の仕方を身に付けたのかもしれないと、父親が言っていた。

無論、本当のところは誰にもわからない。

ただ、ソラと紫苑との距離が少しずつ縮まってきているのを、誰もが感じていた。

 

 免許を取ってから半年と少しが経ったある日のことだった。

 その日、父が仕事の関係で、遠くの町まで飛ばなければならなかった。

紫苑は乗せてもらうよう頼んだ。

父は、待っている時間が暇だぞと言ったが、紫苑がそれでもと言ったので、二人で行くことになった。

行く途中、父は何度もあくびを繰り返し、しきりに首を回したりしていた。

「どうしたの? 父さん」

「いや、大したことは無いんだが、少し疲れててな」

 父が曖昧に答える。

 それでも紫苑は知っていた。最近父親が、確かに疲れていることを。

 仕事が忙しいらしかった。

 最近帰りが遅い日が続いていたし、休日の午前中も寝て過ごしていることが多かった。

 けれどそんな様子をできるだけ子どもに気づかせないようにしている父親の気遣いを、紫苑は無視することができなかった。

「そう。気をつけてね」

 と短く声をかけるだけだった。

 そして町に到着して数時間。

 やっと父親が用事を済ませて帰ってきたときは、日が傾き始めていた。

「待たせたな。それじゃあ行こうか」

 それだけ言うと、父は再びソラを空へ舞い上がらせた。

 その帰り道での出来事であった。

 途中でふと横を見ると、あまりにも綺麗な夕陽がぽっかり浮かんでいた。

「うわあ」

 紫苑が声をあげる。

「おお、綺麗な夕陽だな」

 父が紫苑の視線を辿って夕陽を眺める。

「そうだ、紫苑。雲の上に行ってみるか。きっと気持ち良いぞ」

「うん、行こう」

 父がスロットルをいれ、上昇していく。

 ぐんぐん雲に近づき、一気に雲の中を突き抜けた。

 雲の上に飛び出す。水平飛行に切り替える。

「おおお」

 紫苑は思わず感動のため息を漏らした。

 眼前には広大な雲海が波打っていて、その水平線が濃く鮮やかな朱に染まっている。その色が、上にいくほどにブルーに変わっていく。その美しいグラデーションで彩られた空には、雲はひとつも浮かんでいない。自分たちは雲の上にいるのだというその実感に、紫苑は甘い痺れを覚えた。

 その瞬間だった。

 突然、がくんと視界が揺れる。

 首が揺れ、体がシートに叩きつけられた。

 一瞬遅れて、紫苑は、飛行機自身が揺れたのだということに気がついた。

 そして気がついたときには、飛行機はゆっくりバランスを崩し始め、雲の海へ突っ込み始めた。

「父さん!?」

 紫苑が左側を振り向く。

 父親ががっくりと首を落として気を失っている。

「父さん!」

 呼びかけても返事は無かった。

「ソラ、父さんはどうしたんだ!?」

 紫苑が叫ぶと、電子音が短く鳴った。

「スキャンの結果、急激な高度上昇による気圧変化および酸素不足で一時的な失神状態にあるようです」

「なんだって! でも父さんはプロのパイロットなんだから、そんなはずは――」

 その一言を話す間にも、飛行機は機首を下に向けて高度を落としていった。今はもう既に雲が頭上に見える。

 一瞬毎に速度が増す。

 紫苑は慌てて自分の前の操縦桿を握った。

「ソラ! 副機長席の全操作をオンに! 早く!」

「了解しました」

 もはや墜落速度はピークに達していた。

 後ろ向きに強力なGがかかり、全身がこれでもかというほどシートに押し付けられた。

急激な気圧の変化。

 頭が割れるように痛い。

 意識が頭の外に持っていかれそうだった。

 このまま自分も失神してしまえば、どれほど楽だろうか。

いっそのこと、意識を失ってしまいたかった。

 そんな考えを頭の外に弾き飛ばし、紫苑はもうろうとする意識を手繰り寄せるために、思い切り歯を食いしばった。

「う……あれ……?」

 左で父の声がする。高度が下がったことで意識が戻ったのだろうか。

 しかしそんな様子を見る余裕は、今の紫苑には無かった。

 悲鳴を上げて振動する機体。

 がたがたと不安な音を立てるキャノピー。

 紫苑が雄たけびをあげる。

 紫苑は思い切り操縦桿を手前に引っ張った。

 重い。

 物凄いスピードで落下する飛行機は、ちょっとやそっとの力で引っ張ったくらいでは、びくともしないのだ。ましてや機首をあげて水平飛行に切り替えるなど、よほどの力と、そして技術が無ければできる業ではない。

「あがれええ!」

 限界まで右腕に力をこめる。

 その瞬間――

轟音と、物凄い振動。

その直後、嘘のように音と振動が止み、全身をシートに押さえつけていた力が不意に消えた。

奇妙な浮遊感の中、紫苑は、真ん前に見えていた地上が少し視界の下にずれていることに気がついた。

このタイミングしかなかった。

 機首上げと同時にスロットル。

 途中まで一気に押し上げる。

失速寸前で一度緩める。

再び一気に伸びきる。

メーターのチェック。

 反転トルクを全身に感じながら、ラダーペダルを踏み込む。

 ひどくゆっくりに感じられる世界の中で、ソラはまるで生き物のように揺らめきバランスを取りながら、再び空でどっしりと構えなおした。

 長い沈黙。

 紫苑は溜まっていた空気を一気に吐き出し、新鮮な空気をめいっぱい吸い込んだ。

 肺が新鮮な空気を欲しがって、直接喉からできそうだった。

 荒々しく肩で息をして、なんとか呼吸を整えようとする。

「水平飛行への体勢が整いました。現在、飛行は安定しています。ダメージゼロ。機体に損傷はありません」

 無感情なソラの声が、紫苑を現実へ引き戻した。

「紫苑……」

 隣で唸る父の声に、紫苑は慌てて左を振り返った。

「父さん、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ。気を失ってたみたいだな」

 まだ父の顔は青白かった。顔に脂汗が浮いている。

「それよりお前は大丈夫なのか?」

「うん、僕は大丈夫だよ」

「そうか。よかった……」

 父が安堵のため息をつく。

 思わず紫苑もため息をついた。

 突然父が気を失ったこと。飛行機が落ちるかもしれなかったこと。

 すべてへの安堵が一気に押し寄せてきて、その途端にどっと全身から汗が噴き出した。

「心配かけてすまなかったな、紫苑」

「ううん。父さんが無事なら、それでいいんだ」

 額を伝う汗を拭いながら、紫苑が答える。

「すまない。普通ならこんな事は絶対に無いんだが……実は、最近あまり寝てなくてな。疲れが溜まっていたのかもしれない。これからは健康に気をつけるよ」

「……知ってるよ」

「……そうか」

 父が操縦桿を握ると、紫苑はゆっくりと手を離した。

 まるで何事も無かったかのようにゆったりと滑るように飛ぶ飛行機の中で、紫苑の目の前にある、べっとりと汗で濡れた操縦桿だけが、無言で何かを告げていた。

 

 ソラを格納庫へ入れて、夕食の席についた。

 父は今日のことを何も言わなかった。きっと母に余計な心配をかけたくないのだろうと、紫苑は思った。

 すると父が紫苑に話し掛けてきた。

「紫苑、明日からお前、一人でソラに乗るか?」

「え?」

 三人が同時に声を上げる。一番声が大きかったのは母親だった。

 父親が続ける。

「もちろん法律違反だから、他の人に一人で飛んでるのを見られてはいけないがな。この辺りは田舎だし、他所で降りずに空で遊んでるだけなら、そんな心配もいらないだろう」

「駄目よそんなの。どうして突然そんなことを?」

 母親が眉間にしわを寄せて父に尋ねる。

「ここ最近、俺の仕事が忙しいだろう。きっとこれから先もっと忙しくなるんだよ。そうなると、俺の体力的にも時間的にも、紫苑はずっと飛行機に乗れないようになってしまう。それはかわいそうじゃないか」

 父が皆の前ではっきり仕事が忙しくて大変だと言ったのはこれが初めてだった。

「だからって……紫苑はまだ十四歳で免許を取って半年しか経ってないのよ。危険だわ」

 沈黙の後、父が口を開いた。

「いや。俺は、紫苑はもう一人でも大丈夫だと思っている」

 父が紫苑の顔をまっすぐ見つめた。

 父の瞳の奥には、熱い意志が燃えているようだった。

紫苑もまっすぐ見つめ返した。

そして紫苑の瞳にも、同じ炎が宿っていた。

「なあ紫苑、どうだ」

 紫苑の答えは訊くまでもなかった。

「乗る」

 そう。

 自分の手で飛行機を飛ばしたのはたった半年でも、紫苑はずっとソラと父と一緒に、空を飛んできたのだ。

 父と子の熱い眼差しを見て、母親は何かを悟ったように黙ってうなずいた。

 この日から、紫苑は一人でソラに乗ることになった。

 管制塔への許可申請は毎回きちんと出していたため、咎められることはなかった。

他人に見つからないようにするのは幾分か窮屈だったが、それでも一人で乗るコックピットと自分が動かす操縦桿は、いつもよりもぐっと魅力的だった。

そして何より、父親が自分を認めてくれ、自分にすべてを任せてくれたことが、この上なく嬉しく、紫苑の心の中できらきらと輝いていた。

 

 

 しかし、そんな幸せな日々は長くは続かなかった。

 父が、死んだ。

 飛行機の操縦中の、事故だったそうだ。

 輸送機での飛行の途中で制御不能になり、そのまま墜落。

 飛行機と積荷は爆発して全焼。

 死体もあがらなかったそうだ。

 葬儀の列で、姉の里香が声をあげて泣いた。

 ぐっと涙をこらえていた紫苑も、とうとうその両の瞳からぼろぼろと涙を溢して泣いた。

 母は、ずっと飛行機に乗っているのだからこういう日が来ると覚悟はしていたと言っていたけれど、夜中に父の写真を見て独り涙を流していた。

 母親のその姿を見て、わずか十五歳になったばかりの少年は、これからは自分が男として強く生きなければと固く心に誓った。

それでも、優しかった父親はもういない。

飛行機のことについて熱く教えてくれた父親はもういない。

隣に座って一緒に飛んでいた父親はもういない。

いつもすぐそばにいて応援してくれた父親はもういない。

その夜、紫苑はどうしようもなく寂しくなって、毛布を抱えてソラのもとへ向かった。

格納庫の扉は、いつもより重かった。

格納庫の闇は、いつもより暗かった。

奥にたたずむ飛行機のキャノピーを開けてコックピットに潜り込み、一度立ち上がってキャノピーを閉めて、シートに沈んだ。全てが、重い。

電源スイッチを、ゆっくりと押す。

 

「父さんが……死んだよ。輸送機の操縦中に、事故で墜落した」

 ゆっくりと、それだけを呟いた。

「マスターが、死んだのですか」

 いつもと同じソラの声。

「ああ」

「そうですか。……マスターが何らかの理由でユーザー登録を解除した場合、別の人物をマスターとして再登録する必要があります」

 長い長い沈黙の後、紫苑が口を開いた。

「ソラ、今日から僕が……いや、俺がソラのマスターだ」

 紫苑の表情は見えなかった。

「よろしいのですか?」

「ああ」

「了解しました。ユーザー:シオンのユーザー情報を更新します……。ユーザー:シオンをマスター登録しました」

「今日からは俺が父さんの代わりに、強く生きていくんだ。強く……」

 紫苑の口から、小さな嗚咽がこぼれた。

「マスター? どうしました?」

「何でもない」

 紫苑が顔を隠すように、メインモニタから顔を背ける。

「しかし、体温・脈拍の上昇が見られ、涙を流しています。マスターは泣いています」

「……哀しいんだ」

「哀しい」

「うん。もう父さんがいない。そう思うと、寂しくて、心細くてたまらない」

「寂しい。心細い」

「心が痛いって事だよ」

「……ココロが、痛いのですか」

 ソラが繰り返す。

「うん」

 短い沈黙。

「マスター、今日はもうお休み下さい。マスターの体とココロには、休息が必要です」

 紫苑が大きくすすり上げる。

「わかった。ここで寝てもいい? 毛布を持ってきたんだ」

「構いません。どうぞ」

 シートに寝転がり毛布に包まる。

体勢を整えるために一度寝返りをうった。

 誰が見るわけでもなかったが、紫苑は赤く腫れ上がった眼を隠すように毛布を頭まですっぽりと被った。

寒さを我慢して、猫のように体をまるくする。

体と心の寒さにひとしきり震えた後、いつしか紫苑は深い眠りの淵におちていった。

 

翌朝紫苑が目覚めると、紫苑は毛布を蹴飛ばしてしまっていた。

また風邪をひいてしまってはいけないと思い寝ぼけた頭で毛布を拾い上げると、点けた覚えの無いヒーターがオンになっていて、コックピットは暖かかった。

 

 
 

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