空の果てまで

 

              第二話                         空と地上の狭間で

 

 空を飛んでいた。

 いつもと同じようにコックピットのシートに深く腰をおろし、右手には操縦桿を、左手にはスロットルレバーを握っている。

 自分の右手の動きに合わせて、飛行機が翼を振る。

 紫苑にとって、飛行機は機械ではなかった。

 空にいるときは、飛行機は自分の一部であり、自分が飛行機の一部なのだ。

そうして飛んでいるうちに、だんだん機体が透明になって、とうとう消えてしまった。

 自分だけが宙に浮いている。

 紫苑は戸惑いもせずに、そのまま風の流れに身を任せた。

 両手を飛行機の翼のように広げて風を切る。

 眼前にはどこまでの果てしない空が広がっていた。

 あの時と同じような夕焼けだ。

 前も、後ろも、上も。全てが息を呑むほどに美しい夕焼けで満たされている。

 そして足元には、その光をたっぷりと受けて光り輝く広大な海。

 この空間全体に満ちたこのオレンジの光は、紫苑の頬をやわらかく温めた。

 ふと隣を見ると、父親が自分と同じようにして飛んでいた。

 こちらに手を振っている。振り返す。

 父はとても楽しそうに手を揺らしながらゆったりと飛んでいる。

 紫苑も同じようにふわりふわりと空で踊った。

 しばらくして、父がこちらを振り返って何か呟いた。

 声がまったく聞こえない。

 父の声どころか、この世界には音すら存在しない。

 父の口が何かの言葉を形作った後、父はゆっくりと上昇を始めた。

 ゆっくりと、しかしどんどん上昇していく。

 初めは紫苑もついていこうとしたが、父は見る見るうちに紫苑にはたどり着けない高度にまで達してしまい、紫苑はそれ以上追えなかった。

 紫苑がはるか上空を見上げる。

 父は最後にもう一度軽くこちらへ手を振ると、そのまま空に溶けるようにして、空の彼方へ消えていった。

 父は、死んで空へと昇ったのだろうか。紫苑はそう思った。

 きっと、人間に限らず全ての生き物は、死んで空へと還るのだ。

 そういえば昔、生き物は皆海から生まれ、地上そして空へと進化を遂げたという話を聞いたことがあるが、あんなのはうそっぱちだ。

 そう。

 全ての生き物は、空から生まれ、そして空へと還るのだ。

 紫苑はそこでもう一度大きく両手で風を切った。

 

「東城」

 耳障りな低い男の声で目が覚めた。

 開こうとしない眼を無理やりこじ開ける。目の前には木製の机。

 紫苑は、自分が教室で居眠りをしていたのだということに気づいた。

 視線を上げていくと、額の禿げ上がった人相の悪い男が自分を睨んでいた。

「東城、昨夜は徹夜で勉強か?」

 男がまた声を出す。低音でしわがれたウシガエルのような声だ。その耳障りな声で話し掛けるのはやめてもらいたい。

「はい」

 紫苑が眉間にしわをよせて頭を掻きながら答える。

 教室に小さな笑い声が漂う。

「ほう。それは熱心なことだな。だがその割にはこの英語の小テストの答案用紙は寂しいじゃないか」

「僕もひとりぼっちで叱られて寂しいです」

 抑えきれない笑いがあちこちで噴き出す。ちらと視線を教室中に走らせると、ほとんどの人間が肩を震わせていた。

 そして目の前のウシガエル男はというと、肩ではなく、眉と目と口を震わせている。いや怒りのあまり肩も震えてきたようだ。

 ばしん!

 しんとした教室中に、いかにも痛そうな音が響く。

 無論、頬がぴりぴりと痛い。

「東城ぉ……」

 そこで授業終了を告げる鐘が鳴った。

 部屋にざわめきが取り戻される。

「放課後、教員室に来い」

 それだけ叫ぶと、男は部屋を出て行った。

 紫苑はそのまま椅子に腰を下ろす。

 窓の外へ視線を向けると、雲がちょうどいい量浮かんでいた。

 東城紫苑、空から生まれ出でて十七年と三百六十四日であった。

 

 

 教室から教員室へ向かう長い廊下を、紫苑は歩いていた。

 帰宅や部活と歩き回る生徒達が横をすり抜ける。人で溢れ返っているにも関わらず、ぶつかる人間はほとんどいない。皆目で見るより肌で感じるといった具合に、他人との距離を把握しているのだ。

 ざわめく廊下。

 一人ひとりの声は小さくても、人間がこれだけ集まればそのひとつひとつの言葉は一つの大きな音のうねりとなって廊下中に響き渡る。

 紫苑はその煩い雑踏から抜け出すように廊下の端へ行き、窓の外を眺めた。三階の窓からは外がよく見えた。

 下の方へ目をやる。

 だだっ広い校庭から校舎の方へ入ってきた場所で、中庭のようになっている。中央には白い石で造られた古い噴水が黙ったまま佇んでいた。小汚い噴水で腰掛けるカップルなど今時いるはずもなく、その噴水はいつも寂しそうに役目を果たしているだけだった。

 その横へ視線を流していく。

 噴水の横、中庭の一番端にある大きな黒光りする物体に、紫苑は視線を留めた。

 それは、もう動かなくなった古いエンジン自動車であった。

 まるで地面に根を張ったように動かない、四つの大きな車輪。

 その車輪を包み込む真っ黒な美しい曲線のボディライン。その黒い色も、長い間風や砂に晒されて、もとの美しさを全て奪われていた。定期的に清掃員が磨いているらしいが、ほんの申し訳程度の艶だった。

 車全体を包むフォルムも、今の自動車とは随分違っている。

 今広く出回っている電気自動車は、エネルギー効率を重要視するため流れるような曲線を用いて空気抵抗を軽減するのが主である。

 この真っ黒な自動車はまったく正反対であった。

 長く突き出たボンネットは威張って胸を張るように角張っていて、フロントガラスの角度もきつい。おまけにタイヤまで太くて転がり抵抗をわざと大きくしているとしか思えない。

 まさに映画に出てきそうな車だ。葉巻をくわえて口ひげを蓄えた中年の男が乗っていそうな、そんな車だ。

 今では、こんな車を持っている人間はまずいない。

 この中庭に置かれているエンジン自動車は、いわばアンティーク。つまり古き良き時代――本当に良き時代だったかどうかは知らないが――を思い出す記念碑のようなもの。ただの置き物なのだ。

 紫苑は歴史の教科書に書かれた文章たちを空に浮かべた。

 

 電気飛行機が本格的に一般家庭に向けて出始めたのは、ちょうど紫苑がソラと出会った頃あたりからだった。それまではまだ開発段階だったものが、やっと実用に足ると判断され、一斉に発表されたのだ。とてつもなく大きなプロジェクトだったらしい。

 

あるとき、世界中で過去に例を見ない大規模な同盟が結ばれた。

 数十年前から問題視されていた様々な環境問題が加速度的に悪化し、遂にちまちま対策を立てたくらいではどうしようもなくなったのだ。

世界中の人口が激減。

無論それはこの国も例外ではなかった。

全国家で、全力でこの問題に取り組まなければ、その先にあるのは明白な死だった。

 世界中の国々が、環境保全・回復の名の下に集結した。

 皮肉な話である。

 結局人間は、自らの命が危機に瀕しない限り、何も行動を起こすことができない。

 破壊し尽くし、搾取し尽くし、全てを失って初めて、人類は平和を手に入れたのだ。

 まさに命を削るような努力の末、人類がやっと回復の兆しを見せ始め豊かさが取り戻されていったのは、十数年の年月が過ぎた頃だった。

 こうしてようやく、世界に、苦しみも争いも無い、真の平和が訪れたのだ。

 

先進国は、なんとかしてエネルギー消費を抑えようとした。その過程で、様々な乗り物が古いエンジンを捨て電気を動力とするものに変わっていった。

 その中で、飛行機の分野は一歩遅れていた。

 人間が空を飛ぶことは、それだけパワーが必要で、非効率なことなのだ。

 しかしあるときこの国で、強力なモーターと軽量でかつ容量の大きな新型バッテリーが開発された。

それによりパワー不足の問題が解消され、開発が進められた。

大型のエンジンが必要なくまた大量の燃料を積む必要がないため、機械自身の軽量化とコンパクト化が実現し、それにより燃費の良さも向上。という相乗効果で、開発はどんどんと進んだ。

おまけに、住宅地で問題となっていたジェットエンジンの騒音問題なども解消された。

また、固定翼航空機つまり飛行機では滑走路などの大規模な離着陸設備が必要であったが、機体自体の軽量化と小型化、またコンピュータ制御の新機能により、より狭い場所でも離着陸が可能になる。その分複雑になった操縦についても、コミュニケーターが行ってくれるためパイロットの負担は軽減されている。

これらの様々な要素……環境面、経費面、技術面などの向上により、飛行機は一般人でも乗れる乗り物へと進化を遂げた。そしてある年、様々な職種に対応した飛行機が一斉に発表されたのだ。

国もそれを推進する形となり、電気飛行機は国家プロジェクトとなった。

同時に、世界中にこの電気飛行機の技術を提供。同時開発が進んだ。

こうして電気飛行機は、世界中に広まることとなった。

特に、昔から自家用の小型飛行機が一般的であった国では浸透も早く、申請のシステムなども既に確立されていた。

そしてこの国でも他国の制度を参考に、それまでのものものしいシステムを改善し、一般人がより簡単に空中散歩を楽しめるように改善された。

この時点で、陸・海・空のほぼ全ての乗り物が電気化され、世界中で、旧型のエンジンを動力とする乗り物の製造、使用が禁止されるまでに至った。

まさに地球規模の大プロジェクトであった。

機械、コミュニケーター、そしてこういったシステムを一から構成し世界中へ広げるのは、決して簡単ではなかった。しかしそうして親しみやすくなった電気飛行機は爆発的に世界中で飛び始めた。

そして全ての一般向け小型電気飛行機のベースモデルとなった唯一の飛行機……つまり“オリジナル”が、Sky-Danceシリーズなのである。

今思えば、ソラは“最新型”というよりは“最初の型”と言えたかもしれない。紫苑はそんなことを考えていた。

 なお今の子供達は誰一人、先の惨劇を知らない。

 紫苑にしても、教科書に載っているのを読んだだけで、この目で見たわけではなかった。

 この平和な時代に生まれたことについては、紫苑は素直に感謝していた。

 

 気がつくと教員室の前に着いていた。もう少し物思いに耽っていたら通り過ぎてしまうところだった。紫苑は入り口の前に立ってノックをした。

「失礼します」

 扉を開けて入るとウシガエルが椅子に座って紫苑を待ち構えていた。

 机の上に置かれたプレートには斉藤と書かれていたが、この学校でこの男のことをこの名前で呼ぶ生徒はほとんどいない。もちろん、本人のいないところでだが。

 紫苑は教員室内を見渡す。

 今はほとんどすべての教師が各々のデスクについていた。

 ほとんどが見知った顔だったが、たまに知らない顔がある。

 壁伝いに視線を走らせると、様々なポスターや掲示物が貼られてある。

 一番向こう側にはこちらを向いた大きな木製の机がある。校長の席だ。

 今は校長室にいるのだろうか。校長は今はここにはいなかった。

 校長の椅子の後ろの壁には、ご大層な言葉が書かれた紙が額縁にいれて飾ってあった。

 たしか校長が考えた“今年の抱負”みたいなやつだ。と紫苑はぼんやりと思い出した。紫苑の記憶にある限りでは、ろくなのが無かったと記憶している。

「座れ」

 ウシガエル――斉藤が目の前の椅子を顎でしゃくる。

 紫苑は視線を斉藤に戻し、黙って椅子に腰を下ろした。

「東城。はっきり言って、お前の態度は目に余るものがある」

 斉藤の声は幾分か落ち着いていた。

「確かにお前は、選択過程……機械科の成績は非常に優秀だ。だが、それだけじゃ駄目だ。お前がこのアカデミーに通っている以上、英語も勉強しなけりゃならない。好きなことだけをやってるわけにはいかない。それが社会ってもんだ。わかるな、東城?」

「はい」

「お前はやればできるじゃないか。以前、全科目ですべて“優”を叩き出したこともあったろう。どうして今はやらないんだ」

自分は生徒のことをよく理解している生徒思いの良い教師だ。そう見せたくて仕方がないのが手にとるようにわかる。

少しでも揺さぶられればすぐに薄い仮面が剥がれ落ち、嫌味なウシガエルに戻るくせに。紫苑はそう思った。

「……」

「まあお前が大変なのはわかるがな。家庭でも色々あるだろうが――」

「関係ない」

 紫苑が斉藤の言葉を遮るようにかぶせた。

「家では何もありません。俺は苦労なんかしていないし、父親がいないのは関係ありません。何も知らないのにわかったような口を叩くのはやめて下さい。俺は自分の意思でこうしてるんです。実際、全ての科目において、必要な単位数はすべて満たしています。先生の仰ることはもっともだと思います。ご指導ありがとうございました。じゃあ自分は失礼します」

 紫苑は早口に言うと立ち上がり、泡を食ってる斉藤を振り返りもせず教員室を後にした。

――地上は、くだらない。

 紫苑は心の中でそう呟くと、生徒用通用口への階段を下りた。

 

 外に出ると、夕暮れ時だった。

 西に沈みゆく陽の光が頬にあたって温かい。

 十一歳の頃見たあの夕焼けを超える夕焼けを、紫苑は未だ見たことがなかった。

真っ朱 ( ま か ) に染まる夕焼けの空を背景に、その ( ) よりももっと 真っ紅 ( ま か ) な翼が、空で踊っていたのだ。

あの光景を忘れた日はなかった。眼を瞑るといつでも瞼の裏に浮かべることができる。

「……」

 今となっては、自分が地上から飛んでいるソラの姿を見ることはなくなった。

 紫苑は軽く頭を振り、考えるのをやめた。

 駐車場に置いていたスクーターにまたがり、アクセルを捻った。

 スクーターは滑るように門をくぐって、帰路についた。

 アカデミーの周辺は比較的建物が詰んでいるが、それでも田舎町といった具合だった。

 家までスクーターで走って飛ばせば三、四十分ほど。

 その道中の、ハンドルを通して手に伝わってくる舗装されていない土の田舎道の感触が心地よかった。

 

 風を感じ、空を感じ、土を感じる。

 空はこんなにも綺麗なのに、どうして地上はこんなにも淀んでいるんだろう。

 空にある雲は全て自由に浮いているのに、地上ではなぜ皆下を向いて縛られながら沈んでいるんだろう。

 空はあんなに静かなのに、どうして地上はこんなにも雑音で溢れているんだろう。

 空から地上に舞い降りてきた空気は、そんな汚れたものを全部吸い込んで、灰色に染まってここで沈んでいる。

 彼らは、二度と空へ昇ることはない。

 

 飛んでいるとき、下を見下ろすと、地上がある。

 上を見上げると、果てしなく広がる空がある。

 紫苑は、空と地上の狭間の透明な空気の中で、いつまでも踊っていたかった。

 
 
 

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