空の果てまで

 

              第五話                         憤怒

 

 紫苑は言っていた通り、いつもより早めに家を出てアカデミーの門をくぐった。

 アカデミー。

 国の方針で全国的に建設された、国立の学校施設。

小・中・高等部とエスカレータ式にあがっていく。各部、各学年ごとに進級試験があり、その結果や日ごろの成績を含む総合点数で、ABCおよびSというようにランク分けされる。

生徒に優劣をつけるのは良くないと大人たちからの反対があったらしいが、それは大人の勝手な想像だと紫苑は思う。

自然界のどんな場面においても、そこには必ず優劣が生じる。

――弱肉強食。一言で説明してしまえば、それだ。

 強い者は生き残り、弱い者は死ぬ。

 そうして強い遺伝子だけを後世に残し、過酷な環境を何とか生き延びていく。

 またある程度進化した動物には、少なからず社会性が生まれる。

たとえば狼。

強い者が集団のリーダーとなり、弱い者がそれに従う。

強い者には自由が与えられる。同時に守らなければならないモノが生じ、そこに責任と覚悟が生まれる。

弱い者には束縛が与えられる代わりに、守ってもらえるという安心と安泰、そして堕落を手に入れることができる。

どんな出来事も、簡単に自由だけを手にすることはできない。

責任、覚悟、義務、束縛。そういったものを全て受け止めた者だけが、自由を手にすることができるのだ。

――そして最後には、自分を通すだけの“力”だ。

 よく自由だけを主張してピーピー鳴いているだけのやつらがいるが、あんなやつらは阿呆だ。紫苑はそう結ぶと、そちらへ思考の手を伸ばすのを止めた。

 大人の事情は紫苑にはよくわからないが、とにかくアカデミーはそういう制度になっているのだ。

通常課程と選択課程があり、通常課程は、その名の通り普通の筆記科目。

頭の中に英語を喋るウシガエルが浮かんで、紫苑は頭を振ってかき消した。

そして選択課程は機械科や理学科、家政科、言語科、文化科など様々な分野に分かれる。

たとえば機械科では、数年前から航空専攻がメインとなり、電気飛行機やその他の機械の構造について学んだり、操作の仮想訓練や整備の訓練をする。航空機については、安全性の観点から実機演習は行わない。

――そりゃそうだ。免許も持っていない人間に飛行機を飛ばさせたら、飛行機が何機あっても足りるはずがない。

この選択課程については、中等部から導入される。小等部までは通常課程のみ。

アカデミーの単位は、通常課程と選択課程、完全に別なものとして計算されており、両方において必要な単位を修めないと、昇級できない。

紫苑がウシガエルに文句を言われていたのはこういうことだ。

ただしランク分けについては、単純に両方の合計点から計算される。紫苑は選択過程の成績が飛びぬけて良いために、ランクはAだった。

誰もいない静かな廊下を歩いて、紫苑は突き当たりの部屋に入った。

無音の部屋に響く紫苑の足音。

紫苑は窓際の席まで歩いて行くとそのまま鞄からノートを取り出し、机に投げつけると同時に椅子に座った。

――これをやらないと落ちるしな。

 紫苑は目の前に並ぶアルファベットを睨みつける。

 それでも視線は紙の上を上滑りし、文字たちは全く頭に飛び込んでは来なかった。

――飛行機の本ならいくらでも読んでやるのにな。

 紫苑は頭が悪いわけではない。実際、まじめに取り組んでいる科目についてはどれもほとんどトップクラスだった。

 その時突然、視界の上方から一冊のノートがぬっと現れた。

 驚いて紫苑が顔を上げる。

 ノート。ノートを持つ白い手。細い腕。華奢な肩。

 その先には、栗色の長い髪を後ろで束ねた少女。

「優姫」

 紫苑が呟く。

「よかった。覚えててくれたんだね」

「昨日の今日じゃないか」

「でも昨日とは髪型が違うし、わからないかと思った」

「そんな長くて綺麗な栗色の髪なんて他にいないさ」

 紫苑が言うと優姫はよくわからない表情で笑い、差し出したノートをぱたぱた振った。

「よかったら使う? 今日提出の課題なら、私やってきたよ」

「いいのか」

「うん」

 紫苑がノートを受け取る。そのままページをめくる。

 綺麗に並んだ、小さなまるい字。

 罫線から決してはみ出すこと無く整列した文字たちはどれも少し薄めで、彼女の性格をそのまま表しているような感じがした。

「すごいな」

「私は英語、得意だから……」

「借りるよ」

 それだけ言うと、紫苑はノートを二冊並べてペンを走らせた。

 静かな教室に、ペンが紙の上を走る音だけが繰り返される。

 優姫は立ったままで紫苑を眺めていた。

「時間かかるよ」

「いいよ。見てる」

「そうか」

 沈黙。

 紫苑は沈黙が好きだった。優姫がどうかは知らない。

「居たんだな」

 先に口を開いたのは紫苑だった。

「え?」

 優姫が訊き返す。

「教室にさ。俺一人かと思ってた」

「ああ、うん……」

 優姫は曖昧な返事を返すだけで、あとは何も言わなかった。紫苑もそれ以上訊かなかった。

 十分ほどで課題はすべて仕上がった。

 よく整理された優姫のノートはウシガエルの授業よりよっぽど解りやすかったと、紫苑は感じた。

 ノートを返す時にそれをそのまま優姫に伝えると“ウシガエル”のところで優姫は笑い出した。どうやら優姫はそう思っていなかったようだった。

「ねえ、他にはあだ名はあるの?」

 優姫が紫苑に尋ねる。

「あだ名ってわけじゃないからな。……例えば数学の尾上はヤマアラシ」

「ヤマアラシ? どうして? デリケートで傷つきやすいから?」

「いや、前に女子生徒に近づきすぎて思いっきり殴られたことがあるから」

 そんな話が続いていくうちに、とうとう優姫は腹を抱えてうずくまった。

廊下を歩いてくる数人の生徒の笑い声や話し声が聞こえた。

優姫は立ち上がって涙を拭った。

「じゃあ私、もう自分の席に戻らなきゃ」

「ああ。ノートありがとう」

「うん。じゃあまた後でね」

 騒がしくなる教室。

 教壇に立つ教師。

 汚れる空気。

 今日もこうして、汚れた地上の一日が始まる。

 

 昼休み。

 鐘が鳴った瞬間に再び騒がしくなる教室。

――どうして皆こんなに騒ぐのが好きなのだろう。

 十八年間生きてきても、紫苑にはやっぱりわからなかった。

「紫苑君」

 呼ばれた声の方に紫苑は振り返る。優姫の声だ。

「どうした」

 優姫は朝と同じ位置に立っている。

「その……紫苑君はお昼ご飯、どうするの?」

「今日はカフェへ行く」

「そっか……」

 優姫の瞳があっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。

「言いたいことがあるなら言えよ」

 射抜く紫苑の眼。

 優姫の視点が紫苑の顔に定まった。息を吸う。

「よ、よかったら、お昼一緒にどうかな、って思って」

――何だってこいつはこんなことでいちいち緊張するんだ。

 言おうとした言葉を紫苑は飲み込んで、黙って立ち上がった。

「サンライズ・カフェでいいか。あそこのオムライス、安くて美味いんだ」

 訊きながら返事も聞かず、紫苑は教室を出て行く。

「う、うん!」

 優姫が一歩遅れて後を追った。

 

 アカデミー敷地内の一番端にあるカフェの中に、紫苑と優姫はいた。

 校舎から離れているせいで、他の店に比べて人は少ない。紫苑にとっては好都合だった。

 少し暗めの暖色のライトが、店内をほんのりオレンジの光で包み込む。

 スピーカーから漏れる静かなジャズがその光と溶け合って、甘いハーモニーを醸し出していた。

 よく磨かれた黒光りするカウンター。その奥の厨房からは、何かを切る音や焼く音が交互に聞こえてくる。

 洒落たウッドの丸テーブルに細い脚の椅子のユニットがゆったりと並べられていて、奥の壁際の席に、紫苑と優姫は向かい合わせで座った。

 学生向けのカフェにしては少々大人びた雰囲気だった。

 その証拠に、例の騒ぎたがる人間はほとんどおらず、一人で本を読む学生や教員が客の大半を占めていた。

 店の雰囲気とサンライズ・カフェという名前がマッチしているかどうかは、紫苑にはわからない。

 ただこの静かさと雰囲気、そして安くて美味しいオムライスが紫苑は好きだったのだ。

 注文を取りにきた女性がメモを構える。

「オムライスにグラタン」

 と紫苑。

「じゃあ私も同じやつ」

「オムライス、結構大きさあるぞ」

「それじゃあオムライスだけにします」

 女性がメモに鉛筆を走らせる。

「それと俺はミルクティー。優姫は?」

「うん、私も」

 紫苑が女性に向けて指を二本立てるジェスチャーをする。

 女性はかしこまりましたと一言いうと、奥に消えていった。

「紫苑君はミルクティーが好きなんだね。イメージと違ったな」

「何を飲むと?」

「コーヒー。それも苦いやつ」

 紫苑が首を横に降る。

「苦いものは嫌いなんだ」

 しばらくすると料理が運ばれてきた。

 二人の目の前に皿が三つ並ぶ。

「たしかに大きいね」

「そうだろう」

「でもそう言って、紫苑君はグラタンも食べるんじゃない」

「俺はよく食うから」

 オムライスにスプーンを刺すと、開いた切り口から半熟の卵が顔を覗かせた。

 花びらが開くように半熟卵がチキンライスの上に広がる。

 温かい湯気から香る匂いが、甘く香ばしい。

「今日もレベル高いな」

 紫苑は一言だけ言って、すぐに食べ始めた。

 熱い湯気を纏いながら、卵とライスがスプーンによって紫苑の口まで運ばれる。

 柔らかく震える卵の感触を唇で味わいながら、一気に口の中へ。

 舌の上で混ざり合う卵の甘さと塩の辛さ。程々に抑えられた酸味。フライパンに染み込んだバターの香りが口の中でかすかに広がる。

 熱いまま喉へ。まるで自分から飛び込むようにオムライスは胃へと滑り落ちていく。

 喉を中心に、体に温かさが廻っていく。

 ひとつ、ため息。美味い。

 ふと顔を上げると、優姫が自分もスプーンを口に運びながら、こちらを見ているのに気づいた。

「どうした?」

「ううん。美味しそうに食べるなあ、って思って」

「そうかな。考えたこと無いけど」

「食べるの好き?」

「美味いものならね」

「私も」

 あっという間に紫苑はオムライスとグラタンをたいらげた。

 ちょうど紫苑がグラタンを食べ終える頃に、優姫もスプーンを置く。

 ミルクティーが運ばれてくる。

 程よい甘さと渋みが、口の中に残るしつこさを綺麗に洗い流してくれる。

「ごちそうさま。今日も美味かった」

「本当に美味しかったね」

 ゆったりと流れる時間。

 まだ午後の授業が始まるまでは時間があった。

 不意に店のドアが開くベルの音が鳴った。

 すぐにうるさい足音が聞こえてきて、その一秒後に大きな声が響く。

「あれ? 東城じゃねえか」

 無遠慮な、がさつな声。

 どかどかと踏み鳴らしてやってくる足音が、紫苑の横で止まる。

「おい、東城ぉ」

 紫苑は返事をしないし、そっちも見ない。

 この男が誰か判っているからだ。

 視界の端で動くでかい手。

 真っ黒なズボンにぱんぱんに詰まった脚。

 完全な肥満だ。シャツまで小さく見えた。

 それに加えて、体が大きいのだ。

 紫苑よりも十センチは身長が高い。体重は三十キロは違うだろう。

 視線だけを送る。

 下品な金髪に曲がった鼻。紫苑よりもずっと悪い目つき。

 いかにも頭の悪そうな不良だ。

 でかいだけでなく、オシャレと思っているのか悪趣味なアクセサリをいくつも身につけていて、そばにいるだけで暑苦しいし鬱陶しい。

 Bクラスの、堂島 ( たける ) という男だった。

 堂島が紫苑の向かいに座っている優姫に目をやる。

「ああん? なんだ。根暗女の米沢も一緒かよ」

 優姫が俯く。

「おい東城。女連れとは、ずいぶんゴキゲンだなあ。おい」

 紫苑が顎に置いていた手をポケットに突っ込んだ。

「そっちこそ、こんな場違いな店に来るとはずいぶんゴキゲンだな」

 紫苑が冷たく言い放つ。

 二人の視線が絡み合う。

この堂島という男はどうやら紫苑のことを生意気だと思っているようで、いつも何かとつっかかってくる。無論つっかかってるのは紫苑だけでは無いのだろうが、はっきり言っていい迷惑だった。

「今日はいつもの取り巻きがいないようじゃないか」

 紫苑が言う。この男はいつも二、三人の子分を連れて歩いているのだ。

「お前には関係ねえ」

 堂島が優姫の方へ視線を移す。

優姫の全身を舐めまわすようにじろじろと見つめる。

 優姫はただ俯いてじっとするしかなかった。

 膝の上に置いた両手が、これでもかというほど固く握られている。

「やめな」

 紫苑が静かに言う。

 堂島が、ほい来たとばかりに下品に笑って、紫苑へ向き直った。

「ほお。東城、こいつぁお前の コレ ( ・・ ) かあ? けっ、変わりもんのお前には、この根暗なブタ女がお似合いだぜ」

「……」

「どうした。悔しいか、東城。悔しいなら、ここでこの女を抱いてみろよ」

 堂島の下品な笑い声が店内に轟く。

「どうした、できねえのか。ガキのお前には、飛行機には乗れても、女にゃ乗れねえか!」

――くだらない。

 沈黙。

 紫苑の視線が優姫に走る。

 優姫は先ほどよりもっと下を向いて、肩を震わせて耐えていた。

「女に乗るだって? 悪いが俺はお前ほど暇じゃないんだ。飛び切りの女に毎日乗って空を飛んでいるんでな。暇なお前は、どこぞの野良犬を引っ掛けて、ネズミの脳みそ同士よろしくやれば良いさ」

 言い放つ紫苑。

どうしてこんな言葉が口をついて出たのだろう。

 紫苑にはそれが解らなかった。

 いつもなら、こんな地上の汚れの塊のようなやつの言葉など、どこ吹く風なのだ。

――こんなやつに何を言ったって無駄だ。それこそ野良犬に飛行機の操縦の仕方を教えているようなもんだ。言葉が通じるわけもない。

 冷め切った紫苑の胸の中で、何か黒い影がかま首をもたげた。

「け、負け惜しみか」

 堂島がいきなり椅子を蹴飛ばす。

 大きな音を立てて壁にぶつかる椅子。

 優姫の背中がびくっと震えた。

 堂島はそれを見逃さなかった。

 堂島がぐいと優姫の束ねた髪を引っ張る。

「痛っ――」

 優姫が小さな悲鳴を上げた。

「お前が要らねえなら、俺が頂いちまおうか」

 堂島は下品な口から涎まみれの舌を出して、優姫の顔を自分の顔の近くまで持ってくる。

 優姫が固く目を瞑る。

「やめろぉ!!」

 突然の叫び声。いや、雄叫びに近かった。

窓を震わすほどの大声。

 びくっと堂島が全身を震わせて固まる。

鼓膜を突き破るような声の発信源は、紫苑の口だった。

 沈黙。

「け……けっ、なんだ、怒ったか? いいぜ、殴れよ。ただし俺を殴っちゃお前はもうおしまいだ。教員に言いふらして、お前を退学にさせてや――」

 その瞬間、大砲のような轟音。

 堂島は言葉を最後まで言い切らなかった。

 否、最後まで言い切れなかった。

 三メートル向こうの壁にぶつかって崩れ落ちる堂島。

 何が起こったのか、そこにいる誰もが解らなかった。

 ただ一人、紫苑以外は。

 堂島が言葉を言い終わる直前に紫苑はもう拳を振りかざしていた。

 その拳が堂島の口に真っ直ぐ突っ込む。轟音。

 堂島の顔がそのまま変形してしまうのでは無いかと思うほどぐにゃりと凹んだと思ったら、そのまま堂島が三メートル後方に吹っ飛ばされたのだ。

 堂島のもと居た場所には紫苑が立っている。

 紫苑がゆっくりと倒れている堂島に近づく。

「ひっ……ああ……」

 堂島が哀れな声をあげて逃げようとする。

 しかしもう腰が立たなかった。

 堂島の顔が苦痛に変わる。

 前歯が完全にへし折れ、そこから血が溢れ出している。

「堂島ぁ……」

 紫苑が唸る。堂島が小さく悲鳴を上げる。

「お前は俺を怒らせた」

 紫苑が堂島を見下ろす。

 そう。堂島が紫苑を怒らせた。

 その事実に最も驚愕しているのは、紫苑自身だった。

――何故か?

 解らない。

 ただ、この汚れの塊のような男の言葉や行動に、いつもは我慢できたはずの自分が、そこにはいなかったのだ。

 しかし、もうそんなことはどうでもよかった。

 紫苑の中でかま首をもたげた それ ( ・・ ) は、腸とともに腹を食い破り、紫苑の背中へまわる。そして背を伝いうなじへと、 ぞろり ( ・・・ ) とした感触を残して這い上がってくる。

「殴れと言ったな」

 堂島が必死に首を横に振る。涙と血と鼻水で顔がぐちゃぐちゃに汚れていた。

 紫苑の蹴りが堂島の腹を捉えた。

 堂島の体が“く”の字に曲がり、喉から奇妙な声を吐き出した。

「どうした。教員に言いに行くんじゃなかったのか」

 その体を無理やり床からひっぺがして仰向けにして、紫苑はそれに跨った。

「俺はお前を許さない。だから俺はお前を殴り続けてやる」

 紫苑の右拳が堂島の頬で嫌な音を立てる。

「教員に言いつけるだと? 知らねえよ。子分を連れねぇと牙を剥くこともできないようなクズ野郎が、そんなぬるい覚悟で俺に吠えたのが失敗だったな。だが誰もそんな失敗をやり直させてはくれない」

 左。右。

 堂島の顔面が揺れる。

 その度に、堂島の顔は真っ赤に染まってゆく。

「どうだ。まだ教員に言いに行く気力があるか」

 堂島の顎が何か言いたそうに動いたが、一瞬後にはそこに紫苑の右拳がめり込んでいた。

「“言いつける”なんてそんなくだらない口を二度と開く気が起こらないほど、お前を殴り続けてやる。いいか。殴り続ける。お前の覚悟や命なんぞ知ったこっちゃない。二度と口を開けない体になるかもな。それでも俺はお前を殴るのを止めない。覚悟しろ」

「ひいいっ」

 下品に低かった堂島の声はもはや細く哀れな悲鳴しか残っていなかった。

 紫苑の拳が唸り声を上げて振りおろされる。

 肉が潰れ、骨がひしゃげるような音が何度も響く。

 何度も、何度も。

 もはや他の音は聞こえなかった。

「やめて!」

 突然の叫び声。

 紫苑の腕が止まる。

 叫んだのは優姫だった。

 優姫が紫苑の腕を掴んだ。

 優姫の全身が震えているのが、その手を通して伝わってくる。

「優姫」

「紫苑君、もうやめて」

 沈黙。

 紫苑がゆっくりと立ち上がると、もはや誰かの判別もつかなくなった堂島が足元で動いた。

 立たない体を腕で引きずりながら壁へ逃げる。

 無理やり壁伝いに起き上がると、紫苑を睨みつけた。

 しかしその瞳には、もはや恐怖の色しか宿ってはいない。

 牙を完全にへし折られた獣は、ただ尻尾を巻いてその場を後にするだけ。

 堂島はそのままゆっくりと壁伝いに紫苑から離れる。

「東……城……」

 堂島の喉から、濁った声が漏れる。

「なんだ堂島。まだ口がきけるのか。よかったな。それで、教師にでも言いに行くか? それもいいだろう。だが、それでも俺はお前を殴るのをやめない」

 堂島が声にならない悲鳴を上げる。

 紫苑がもう一度睨むと、堂島は店の外へ逃げていった。

 沈黙。

 壊れた椅子。血で赤黒く汚れた床。

 側には、紫苑の腕を掴んで震えている少女がひとり。

 紫苑が舌打ちをする。

「行くぞ」

「行くって、どこへ?」

 紫苑は優姫の言葉に答えずに、自分の腕を掴んでいる優姫の腕を握り締めた。

「こんな気分でこんなところに居られるか。とにかく行くんだよ」

 そのまま紫苑がドアへ歩いていく。

「いた、痛いよ紫苑君」

 紫苑の背中で、また何かが ( ) ぞり ( ・・ ) と動いた。

 それの鎮め方を知らない紫苑には、ただただ歩くことしかできなかった。

 
 
 

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