空の果てまで

 

プロローグ          夕焼け空と真紅の彼女

 

 文句なしに晴れた空だった。

 快晴ではない。

 快晴というのは、気象観測の観点から言うと、見渡した空の中で雲量が一割以下のことをいうのだそうだ。

 見上げた空は、まるでつくりものではないかと思うほど鮮やかで一色のブルーのカンバスに、子供が無造作に描いたような、決して一色ではない様々なちぎれ雲が、ちょうどいい量浮かんでいる。その色たちが作るコントラストが美しいのだ。

――こんな日は、何かが起こる気がする。

 東城 紫苑 ( しおん ) はそんな風に思いながら、部屋の窓の向こうに広がる空を見上げて、心を浮き立たせていた。

 目の前にある木製の机に広げられた白いノートには、綺麗なちぎれ雲どころか、本人でさえ判読するのが難しい汚い字が書きなぐってある。

 母親に宿題をやれと昼過ぎに二階にある自分の部屋に押し込まれてから、既に一時間以上が経っていたが、鉛筆の先はほんの少ししか丸くなっていなかった。

 元気の有り余る十一歳の少年には、天気の良い休みの日に部屋に閉じ込められていることなど耐えられなかった。山鳥の鳴く声、木々を揺らす風の音ですら、自分を誘惑しているような気がした。

「こんな日は、何かが起こる気がする」

 紫苑は声に出した。

「またあんたの『何かが起こる気がする』が始まった」

 背後で声が聞こえた。

 紫苑は声の主の方を振り返る。

 部屋の端におかれた二段ベッドの上段。

 そこで寝転がって漫画の本を広げている少女。

姉の里香であった。

「今度は何が起こるの?」

 里香の視線は漫画を見つめたままだった。

「わからないけど、何かが起こるんだよ、姉さん」

「そう言って起こらないことが多いじゃない」

「じゃあ空を見てみてよ」

 紫苑の言葉に、里香は視線を窓に移した。

 そのあと、顔ごと窓へ向いた。

「わあ! 綺麗な空だね」

「うん」

 空が大好きな姉弟だった。

 成績も性格も好みも違う二人だったが、空を見つめる瞳には、同じ光が宿っていた。

「こんな日は……」

「何かが起こりそうな気がする」

 二人の声が重なった。

 その時、外でガレージのシャッターが開くような音が響いた。

 反射的に紫苑は鉛筆を放り出して、窓を開けて体を乗り出す。

 この窓からは、庭がほとんどすべて見渡せる。

 家の周りを囲うようにして草の刈り取られた、小さい頃からの紫苑の遊び場である庭。

 遠くには青く澄んだ海が臨め、その波があたって砕ける切り立った崖に沿うように、自然のまま手がつけられていない雑木林が生い茂っている。

 無論その雑木林も、紫苑の遊び場のひとつだった。小さい頃からふらりと遊びに行っては隠れ家を作ったりもしたし、そこに生息している野ウサギを一日中追い掛け回したこともあった。その時は盛大に転んで、ウサギに逃げられた上に、服を汚したせいで母親にも叱られた。

 今はその全ての木々たちも、“何か”の訪れを告げているように思えた。

 今聞こえた音は、庭にある大きな格納庫のシャッターが開く音だった。

 紫苑がそちらへ視線を向けた時、里香が紫苑の横から乗り出してきた。

「あっ!」

 そして二人で大声を上げた。

 紫苑は見た。

 眼下に広がる庭の端にある、大きなスレート張りの格納庫。

 その前で、シャッターを開けて手をはたきながら立っている父親。

 そして、灰色の布に包まれた、大きな何かわからない物体。

「あれ、もしかして……」

 里香が呟いた瞬間、里香の胸に紫苑の肩がどん、とあたる。

 紫苑は走り出していた。

 部屋の扉を開け放ち、廊下を全力で走り、階段を駆け下りた。

 途中で一段踏み外したせいで尻を打ちつけたが、それでも止まらなかった。

 靴紐も結ばず、紫苑は飛び出した。

「紫苑、待ってよ、私も行く」

 後ろで里香が叫んでいたが、紫苑にはもう聞こえなかった。

 玄関から裏へ回り込む。

 格納庫についた時、紫苑は肩で息をしていた。

「おお紫苑、もう気がついたか。流石に早いな」

父が紫苑を見つけて笑った。

「もう、あんた、どうせ勉強してなかったんでしょう」

 気がつくと、隣に母が立っていた。

 おそらく紫苑が気づかなかっただけで、最初からいたのだろう。

「してたよ」

 息も切れ切れにそう答えると、後ろから里香がやってきた。

「もう紫苑、扉全部開けっ放しで行くんだから」

 里香も少し息が切れていた。

「はは、全員揃ったな。本当は、後で整備してからお前らを呼ぼうと思っていたんだが」

 どくん。

 紫苑の胸が音を立てる。

 目の前に置かれた灰色の布で包まれた“何か”は、近くで見るとずいぶん大きかった。と言っても、ばかみたいに大きいのではない。格納庫には十分入るサイズだ。

 格納庫。父親。布から推測されるその形状。ほんのかすかに鼻につく機械油の匂い。

 紫苑の胸はもっと高鳴った。

「それじゃあ、お披露目といくか」

 そう言うと父は布をおもむろに握った。

「いくぞ、そうれ!」

 ばさっ、と大きな音がして、布が一瞬で剥ぎ取られた。

 そして、その“何か”が姿を現す。

「わあっ!」

 全員が声をあげた。

 眼前に、燃える炎のような、鮮やかでそして深い真紅が広がる。

 真紅の尾翼。

 真紅の機体。

 真紅の、大きく美しく雄々しい主翼。

 息を呑むほど美しい弧を描くそのフォルム。

 黄色に塗られたそのプロペラと小さなノーズコーン。

 真紅の飛行機が、姿を現した。

 紫苑は言葉にならない叫びをあげた。全身の毛が逆立つほどだった。

「どうだ。格好いいだろう。トゥモローウィングス社の最新型だ」

 紫苑はかじりつくようにその飛行機に見入った。

 ほとんどが空気抵抗を抑えるため曲線的に作られた機体に、ぴんと張るように直線的につけられた主翼がなんとも力強い。

その主翼上の位置に滑らかなラインで取り付けられたコックピットに、まだ保護ビニルがつけられたままのキャノピー。アクリル越しに中を覗くと、なんと二人乗りだった。左右に同じ形のシートが並んである。シート幅は大人の肩幅くらいしか無く、横二列の二人乗りでも随分とスリムだった。その証拠に、前から見た姿は少し太った一人乗りの小型機とさほど変わり無い。それでも二人乗りで横幅が広くなった分、空気抵抗を抑えるために鼻先が長くなっているようだった。

可愛らしい先端のプロペラとノーズコーン。そして機体横に描かれた鳥の翼のマークと英語のロゴ。おそらく会社のロゴだろうと思った。

 全体を見回しても、文句なしの造形と機能美だった。

 個人用の小型飛行機。

 従来のものより、ずいぶんと小型に仕上がっていた。

二人乗りでもスリムに見えるのはこのおかげだろう。

「本当に、いい機体だね、父さん」

 言ったのは里香だった。里香も目を輝かせてそれを見ていた。

「ああ。これでうちにも、晴れて自家用の電気飛行機がやってきたわけだ」

「父さんがプロのパイロットでよかったわ。こんな最新型が、こんなに早く安くで手に入るのは、父さんのおかげね」

 母が笑いながらそう言った。

「ははは、そうだろう。お前たち、父さんに感謝しろよ」

 父はプロのパイロットであった。

 この国最大手の航空会社専属のパイロットで、古くはエンジン飛行機、今では電気飛行機まで。また乗っている飛行機も、旅客機から輸送機、小型機まで何にでも乗れる。紫苑はそう聞いていた。

 実際に父親が飛行機を飛ばしている姿は数えるほどしか見たことがなかったが、紫苑はそんな父親を尊敬していた。

「今から少し整備してから、実際に飛ばして調整してやらないといけない」

「見ててもいい?」

「私も!」

「ああ。構わないけど、整備は見ててもそれほど面白くないぞ」

「やった!」

 紫苑と里香が飛び跳ねた。

 母はお茶でも淹れてくるわと家に戻った。

「よし。じゃあ二人とも、この飛行機を後ろから押して、格納庫の中に入れてくれ」

「了解」

 二人は機体の後ろに回って機体を両手で持つと、ゆっくりと押した。

 全身に跳ね返ってくるこの重みが、理由もなく紫苑をわくわくさせた。

「オーライ、オーライ、ストップ。じゃあ、二人とも離れてなさい」

「はーい」

 二人が壁際に下がる。

薄暗い格納庫。

 壁には一面ラックが備え付けてあり、工具や道具、紫苑の目には皆同じに映る、よくわからない機械部品が所狭しと並べられていて、格納庫全体に、機械油の匂いが漂っている。

 紫苑はこの匂いが嫌いではなかった。おそらく姉もそうだろうと紫苑は思った。

 父がカウリングを外してバッテリーの点検や、キャノピーの保護ビニルを剥がして傷が無いか見たり、切り替えスイッチの接触を調べたり、機械部分のねじを締めなおしているのを二人はじっと見ていた。

 

 整備は手際良く進められ、あっという間に終わった。

「よし終わった。お前たち、乗ってみるか?」

「うん!」

 二つ返事で勢い良く返事すると、紫苑と里香が機体に近寄る。

「この飛行機は凄く小型だが二人乗りだ。狭いけどな。一般に売り出すには、やっぱりせめて二人乗り以上だからな」

 言いながら父は、乗り出してキャノピーを開けた。

「じゃあ、そっと翼の根元に乗ってみろ。そっとだぞ。そこからコックピットに乗り込むんだ」

 言われた通りに、紫苑は恐る恐る翼に膝で乗った。

 壊れやしないかと不安だったが、自分が乗ったくらいではびくともしないことに気づくとほっとした。

 そこから立ち上がり、コックピットに足を突っ込む。

 そのまま左側の席へ滑り込んだ。

 狭いと言われたが、乗ってみると思ったより広かった。

 地上を走る車に比べて、シートはずいぶん後ろに傾いている。

 初めて座ると、まるでほとんど寝ている状態のような気がする。

 シートもまだ保護ビニルで覆われていて、いかにも新品といった具合だ。

 しっかりとシートに腰をおろすと、目の前にはいくつかの計器類が配置されていて、その前に、グリップのついた棒が突き出ている。

 初めて握る操縦桿の感触に、紫苑は胸を躍らせた。

 まるで、本物のパイロットになったかのような気分だった。

「どうだ」

 父が横で声をかける。

「最高。本物のパイロットになったみたい」

 答えたのは里香である。

「紫苑、どうだ?」

「……凄い」

 短く答えた。

「そうかそうか。じゃあ降りてきなさい。今から飛行テストだ」

 飛行テスト。

 その言葉をどれほど待ち望んだか。

 

 飛行機をもう一度外に出したとき、既に日は傾き、空はたっぷりと朱色がかっていた。

 滑走用の広い場所に飛行機を押して移動させ、離陸の準備に入る。

 庭のはずれにあって、そこからはいつも一番海が良く見えた。

 今も水面にもうひとつの ( ) を浮かべてゆらゆら揺れている。

 国の方針のおかげで、一般用小型機が離陸可能な広い敷地があちこちに確保されていた。

 無論、その土地の環境にもよる。この辺りは間違いなく“ど”がつくほど田舎だからだ。

背の高い木があちこちで生い茂り、海からやってきた風が木々を揺らして鳥と一緒に家にやってくるなんて、都会の人間には想像もつかないだろう。

 実際、都会では自宅での離着陸はほとんど不可能で、公共の滑走路もこれほどの数は確保できないというから。

 父はコックピットに乗り込むと、滑って危ないからとシートの保護ビニルを外した。

 紫苑は自分が外したかったので内心残念に思いながら、捨ててくれと言われたそのゴミを受け取った。

「それじゃあ、ここからは危ないから遠くに離れていなさい」

 二人が離れると、そこでいい、と言って手を振り、父はキャノピーを閉めた。

 コックピットの中で何か言ったり、何かのチェックをしたりしているようだが、ここからでは何かはわからなかった。

 そしておもむろに、プロペラが回りだした。

 紫苑は耳を疑った。

 昔、もっと小さい頃に、小型エンジン飛行機が飛び立つのを紫苑は見たことがある。

 その時のエンジン音といったら、まるで鼓膜が破れてしまうかと思うほどの、まさに爆音だった。

 しかし今聞こえている音は、それとは比べ物にならないほど静かであった。

 プロペラがそのまま回転数をあげると機体は滑るように動き出し、みるみるうちに速さを増していく。

 あっという間に飛行機は空へと舞い上がった。

 一昔前までの技術では、到底不可能な話である。

 重いエンジンに重い機体、大量の燃料を積んでいては、小型機でも離陸に数百メートルは必要になる。その値にさらに余裕を加えなければ安全な離着陸はできないので、必要滑走路長はもっと長くなる。

 それらを革命的に改善し、飛行機を一般人に広げる理由となったのが、この電気飛行機なのである。

 十一歳の紫苑には無論そんなことはわからなかったが、凄さを肌で感じることはできた。

 飛行機がぐんと上昇し、水平飛行に切り替えた。

 そのまま小さく旋回し勢いよくこちらに向かって飛んできて、頭上をぶん、と通り過ぎていく。遠くで父が翼を左右にひらひらと振った。まるで手を振るかのように。

 突風に煽られて砂埃が舞い上がる。

 服と髪がばたばたと音を立ててはためいた。

 紫苑は砂埃に目も瞑らず、飛行機を熱い瞳で見つめていた。

「わあっ――」

 紫苑は息を呑んだ。

 感動が電撃となり、全身を走りぬけた。

「あ……あ……」

 言葉が出なかった。

 言葉は要らなかった。

 紫苑の眼前では、 真っ朱 ( ま か ) に染まる夕焼けの空を背景に、その ( ) よりももっと 真っ紅 ( ま か ) な翼が、雄々しくその体を躍らせていた。

 

 

 地上に降りてきた父に、紫苑は乗せてくれとせがんだが、母親がもう日が暮れたから夕飯にすると言ったので、飛行機は格納庫に入れなければならなかった。

 夕飯の席で父が紫苑に、明日思う存分乗せてやるからと言った。紫苑は返事をしたが、それでもすぐに乗りたくてうずうずしていた。

 夕飯を終え風呂に入り、紫苑と里香はベッドに入った。

 

――どれくらい時間が経ったろうか。

 紫苑は眠れずにいた。

 時計が時を刻む音だけがやたらに大きく聞こえる。

 二段ベッドの上では里香の規則正しい寝息が聞こえている。

 紫苑は眠れなかった。

 この瞳に焼付けられた最高の景色が、目を瞑るたびに瞼の裏に蘇る。

眠れるはずがなかった。

窓の外の空を見ると、綺麗な月がぽっかりとあぐらをかいているみたいに浮かんでいた。

迷う時間は短かった。

紫苑は音を立てないようにそっとベッドを抜け出すと、慎重にドアを開けて部屋を後にした。

リビングの壁にかかった格納庫の鍵を手に取ると、誰にも気づかれないようにして格納庫へ向かう。

 格納庫のシャッターを開けると、すぐにそれが目に飛び込んできた。

 暗い闇の中でも鮮やかに燃える炎のような飛行機。

 紫苑はとり憑かれたように飛行機に近づく。

そして昼間と同じようにキャノピーを開け、コックピットに滑り込む。

背伸びをしてキャノピーを閉めると、シートに座って周りを見回した。

一番手前にある電源ボタンらしきものが目に入った。

紫苑は恐る恐るそれを押した。

小さな電子音が聞こえ、目の前にあるメインモニタに明かりが灯った。

「……」

 画面に機体に描いてあるのと同じ翼のマークが現れ、それが消えた後に地味な画面へと切り替わる。

 ピー、と電子音が聞こえたあと、不意に声がした。

「コミュニケーターを起動します。ユーザー認証……マスター……不一致。飛行モードへの移行を中止します」

 若い女性の、綺麗な、しかし無感情な声だった。

「すごい……」

声を漏らす紫苑。

「セキュリティモード、オフ。ロックを解除します。あなたは新規ユーザーですか?」

「ぼ、僕は紫苑」

 慌てて紫苑が答える。

「シ……オ……ン。SI-O-N。新規ユーザー登録を行いますか?」

「うん!」

 反射的に答える。もう何も考えていなかった。何もおびえていなかった。

「了解しました。声紋登録。画像登録。……登録完了しました」

「ねえ、君の名前は?」

「私は、Tomorrow-Wings社・Sky-Dance・シリアル番号1001137です」

「トゥモロー……ダン……わかりにくいな。ねえ、スカイ……ってどういう意味?」

「“空”を表す言葉です」

「じゃあ“ソラ”にしよう、君の名前!」

「“ソラ”」

「うん、その方がトゥモ……なんとかより、ずっとわかりやすいよ」

「了解しました」

「よろしくね。ソラ!」

「了解しました」

「ねえ、君はどんな飛行機なの?」

Sky-Danceは……」

声がしてくれる説明を、紫苑は夢中になって聞いた。

質問が尽きることは無かった。

 

説明を聞くうちに夜は更けていき、紫苑はコックピットの中で眠ってしまった。

翌朝、紫苑が部屋にいないことに気づいた父が格納庫で紫苑を見つけたときには、寒い格納庫で眠っていたせいで、紫苑は風邪を引いてしまっていた。

母親に叱られたのは言うまでもなく、その後三日間風邪は治らず、紫苑は大切な休日を、格納庫ではなくベッドで過ごすことになったのである。

 

 
 

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