第五話                         何も出来なかった

 

「逃げて、悟郎!」

 ミワが叫ぶ。

 悟郎は理解できず、ただ狼狽して、仁王立ちする男を睨むことしか出来なかった。

「やっと見つけたぞ。ミワ」

「……カズマ」

 ミワが呟く。

「俺はお前を、二十五年間ずっと探していた。だが――」

 カズマという男が、木っ端微塵になったコンクリートの上を、音をたててゆっくりと歩いてくる。

 カズマは全裸のミワ、悟郎へと視線を移し、再びミワを見つめた。

「お前は人間と……何をしていた」

 カズマの顔は、明らかに憤怒へと変わっていった。

「貴様のような人間など、一瞬で消し去ってやる」

 カズマが動いた。

 狼血の速さであった。

 悟郎の視力で、やっと姿が目で追えるほどの速さである。

 ざうっ、とコンクリートが吹き飛んだ時、悟郎の眼前に、男が立っていた。

 悟郎にははっきりと感じられた。この男の、本気の殺意が。

 カズマが悟郎の顔へ手を伸ばす。

「駄目!」

 ミワが叫び、カズマへ飛び掛った。

「邪魔だ」

「ぎゃう!」

 カズマの振り放った腕がミワの腹を捉え、ミワは後方の壁に叩きつけられた。

 ミワはがくりと崩れ落ち、倒れた。

「ミワぁ!」

 悟郎が立とうとすると、カズマが悟郎の顔を蹴り上げた。

 悟郎もまた、数メートル後ろへ吹っ飛ばされた。

「ぐ、あぁ」

 カズマが一歩一歩、殺意のこもった足音を立てながら、近づいてくる。

「ミワは、俺達の仲間だった。あいつは優秀な戦士だった」

 一歩。

「はっきり言おう、ミワは狼血……いや、全亜人種の中で一番強い」

 また一歩。

「だが、そのミワが、この俺に一撃でやられるほど弱く、脆くなったのは何故か。それはお前のせいなのだ。人間」

「お……れの……?」

「そうだ。二十五年前ミワがお前を救ったことが、俺達仲間の絆を、誇りを、そしてミワ自身を変えてしまった」

「まさか、ミワが追われてるってのは――」

「一族の掟を破った者は、仲間を追放され、同時に抹殺の対象へと変わる」

「そんな、馬鹿な話があるかよ!」

「黙れぇ!!」

 カズマの右の拳が、悟郎の顔面を捉えた。悟郎は再び右方向へ転がり飛ばされた。

「俺はミワを愛していた。だからこそ、俺はミワを殺さず、またミワを遠くの地へと逃がしてやったのだ。だがミワは……」

 一歩。

 その音が、悟郎には死へのカウントダウンに聞こえた。

「ミワはこの地へ戻ってきた。何故か――お前が居るからだ! お前がいるから、ミワは二十五年間、孤独の世界を生き続け、闇の追っ手から逃れ続け、血を飲みたいという本能を押さえつけ身をすり減らし、迫り来る影の恐怖に怯えながら生きたのだ。その辛さが……お前にわかるかぁ!!」

 蹴り。

 悟郎はもはや動けなくなっていた。

 悟郎の体は猫の死体のようにぐったりとし、床のガラスのかたまりへと滑っていった。

「許さん。俺はお前を、そしてミワを許すことはできない。今ここで、お前を殺し、そして全てを終わりにしてやる」

 一歩。

 また一歩。

 ――くそ、ミワ。

 カズマが悟郎の前に立ちはだかった時、悟郎は再び、死を覚悟した。

 ――情け無ぇな。

 伸びる手。

 カズマの黒い手袋をした手が、ゆっくりと悟郎の頭を掴む。

 頭に激痛が走る。が、そんなことは、どうでもよかった。

 悟郎の体が、左手一本で宙に持ち上げられる。

 ぱらぱらと、悟郎の体についた埃が音を立てて落ちた。

 部屋の中には、俯いたまま動かなくなった女と、ぼろきれのようになった宙に浮く男と、それを片手で持ち上げる男だけが、粉々になった世界で浮き立っていた。

 カズマの右手が後ろに構えられた。

「死ね」

 その瞬間、炸裂音が轟いた。

 悟郎が驚いて目を開く。

 カズマの体が揺れた。

 横から何かに撃たれ、カズマの手は悟郎を放し、そのまま横へ吹き飛んだ。

 ――何だ?

 床に倒れ落ちた悟郎は、カズマの方へ目をやった。

 倒れたカズマの横には、砲丸のような鉄球がごろりと転がっていた。

 ――戦車でも来たのか?

「悟郎!」

 声だ。

 声の主は、久我重蔵であった。

 消滅した壁の向こうから、久我が走ってきた。

「シゲ……?」

 久我の体には、大型の銃が装備されていた。

 胸から肩にかけての分厚い補強のような金具から、腕全体を覆う、驚くほど太い銃身。

 対戦車用特殊兵装『カノン』

本来ならこちらも大型機械に装備するかもしくは、三人以上の人間で射撃する用の、直径百ミリの鉄球を発射する重装備である。

 普通、一人の人間が体に装備できるものでは無い。

 久我の超人的な肉体が有ってこその離れ業であった。

「また、無茶な装備しやがって……」

「喋るな。傷に触る」

 久我が倒れたカズマの方を睨む。

 動いた。

 指先が動き、その後カズマがゆっくりと立ち上がる。

「貴様ぁ……殺してやる」

 カズマの眼光が二人を突き刺した。

「殺してやるぞぉ!!」

 カズマが構えた瞬間、久我はカノンのレバーをフルオートにした。

「悟郎、逃げるぞ!」

 鉄球がカズマの体をとらえる。

 一発、二発、三発、四、五、六、七、八、九……

 久我が片手でカノンを発射しながら、左手で悟郎を抱えた。

「待て! ミワが――」

「馬鹿野郎! 死にたいのか!」

「やめろ、シゲ! おい! 止まれぇええ!」

 久我はカノンを消滅した壁の場所から投げ捨て、自らも、下へ飛び降りた。

 鉄球に打ちのめされたカズマは、それでも立っていた。

「許さんぞ……殺してやる……」

 

 久我は下に乗り付けてあった車に飛び乗り、アクセルを全開にして本部へ走った。

 助手席では、悟郎が裸のままでうなだれていた。

「……て……た?」

 声が小さく、聞き取れない。

「何だ?」

 久我が聞き返す。

「どうして逃げやがった! あそこにはミワがいたんだぞ! ミワは――」

「黙れ!」

 久我の拳が悟郎の顔面を捉えた。

 車の中で悟郎の体が叩きつけられ、揺れる。

 久我は手をハンドルに戻した。

「頭を冷やせ、悟郎。お前がいたところで何が出来る。実際お前はあそこで死にかけていた! いいか、お前は死んでいたんだぞ!」

「……」

「……服を着ろ」

 久我はシートの下に置いてあった衣服を悟郎に投げてよこした。

 呻き声。

 いや、泣き声だ。

 久我が横を見ると、悟郎のシャツに、転々と水滴が落ちていた。

「……」

 

「くそう」

 悟郎が拳を握り締める。

 嗚咽。

「くそう。逃げるしかできなかったのか」

 悟郎の拳は、血が出そうなほど固く結ばれていた。

 

「何もできなかったのか、俺は」