第四話                         再会

 

 紫藤由香里が襲われた事件から、約一ヵ月後。

「まあ悟郎君の回復力なら、これくらいの短期間で完治するのはわかっていたがね」

「ありがとう、先生。これでやっと現場に戻れるぜ」

「くれぐれも無理はせんようにな」

「ういっす」

 悟郎は軽い足取りで、対亜人種特別機動隊第三部隊へ戻っていった。

 扉の前に立ち、勢いよく開けた。

「お前ら、今日から俺も完全復活だぜ」

「おお、そうか。しっかり働けよ」

 久我は隊員にコーヒーを渡しながら言った。

「お、俺もコーヒー」

「淹れてあるよ」

「さっすが」

「悟郎さん、もう大丈夫なんですか?」

 簡易キッチンの奥から顔をのぞかせたのは、紫藤由香里だった。

「由香里、お前またこんなところに遊びに来てるのか」

「いいじゃないですか。他に行くところ無いんだし」

「子供は外へ行って運動でもして来い」

「そんなこと言われるほど子供じゃありません」

 由香里は学生服にエプロンといった姿で、悟郎の前まで歩いてきた。

「あれ、制服?」

「これでも私、学生ですから。三日前から、鎮静剤をちゃんと飲むという条件で、学校へ行く許可をもらったんです」

 由香里はあの事件からすっかり立ち直り、今は普通の一人の少女として、毎日賑やかにやっているらしい。

 由香里はくるりと一回転して、悟郎に微笑んだ。

「可愛いでしょ」

「そうか、そりゃよかったな。ところで久我、仕事の状況は?」

「あー、無視した」

 由香里に構わず、悟郎と久我は会話を続ける。

「二日前の事件の後処理だけだ。おい後藤、あの仕事はお前に一任してあったが、大丈夫だな」

「はい、問題無いです。明日には最終調整の資料が届いて、それにサインしたら終わりです」

「と、いうわけだ」

 久我が悟郎に向き直った。

「どうかしたのか?」

 悟郎はまた子供のような笑みを浮かべた。

「じゃあ俺ちょっと出かけてくるわ」

「今からか?」

「そう。あ、もしかしたら夜になるかも。まあいいや、仕事無いんなら、俺今日休みにしとてくれ。じゃあな」

 悟郎は鼻歌を歌いながら、扉の向こうに消えていった。

 再び閉じられた扉を眺めて、光枝が言った。

「久我さん、悟郎さんって、ちょっと勝手気ままで何考えてるのかわからないとこありますよね」

 久我は鼻で笑い、コーヒーを啜った。

「ちょっと? いつも、の間違いだろ」

 ――悟郎のヤツ、何かに気付いたのか、それとも……悩んでいるのか。

 久我は再びコーヒーを啜った。

 

 走る車の中で、悟郎は頬杖をつきながら、思いを巡らせていた。

「……俺がこの組織に入った理由か……」

 誰に言うでもなく、ただ呟く。

「大した理由じゃない……」

 

「……ミワ……どこに居る?」

 

 クラクションの音が、耳を突き抜けた。

 悟郎は我に帰った。

 前方から大型トラックが突っ込んでくるではないか。

 いや違う。自分が対抗斜線に入っているのだ。

 悟郎は慌ててハンドルを切り、ぎりぎりのタイミングでトラックをかわした。

 遠くの方でトラックの運転手の怒鳴り声が聞こえている。

「はあ……」

 ため息。

悟郎は頭を掻き毟った。

「あーくそ、あの狼血の亜人ってやつを、楽に倒せる方法、考えないとな。隊長の務めだ。」

 悟郎はアクセルを踏み込んだ。

 

 スポーツセンター。射撃場。喫茶店。バイク店。定食屋。靴屋。

 悟郎は当ても無く、ただ気まぐれに車を走らせ、そこで時間を潰した。

 これだけたくさんの近代的な店や設備があるのも、今となっては東京だけである。

 それも、数も多くは無い。

 

 最後に悟郎は、都心から少しだけ離れた郊外にある、ある建物の中に入っていった。

 悟郎のセーフハウス、つまりは別荘のようなものであった。

 ゆったりとした空間の使い方。ソファに大きなサイズのベッド。枕もとには上品なスタンドが置いてある。この時代、対亜人種特別機動隊に勤務する、超上級職の人間だけができる風景でもあった。

「ふう」

 悟郎は冷蔵庫の中から缶のビールを取り出し、ソファに倒れこんだ。

「……」

 沈黙。

 静かだ。自分以外は誰も居ない。

 外ではもうとっくに日は沈み、辺りは闇に包まれている。

「現在の最高の環境で生活し、最新の装備に身を固め、最強を自負する組織……か」

 悟郎は立ち上がり、ベランダへ繋がる窓のカーテンを開けた。

 静けさ。

 音も、動く影も、何も無い。

 が、それが一瞬で崩れた。

 突然、視界の左から、大きな影が右へ飛んだ。

「何だ」

 悟郎は慌てて窓を開け放ち、体を乗り出して影の動いた方へ目をやった。

 影は右へ左へ揺れながら、路地の暗闇へ消えていく。

「亜人か?」

 悟郎は闇に目を凝らした。ほとんど見えなかったが、おそらくそうであることが、そのぼんやりと見える影の形から想像できた。

 そして次の瞬間、左から、再び一つの影が飛んできた。

 悟郎はその影の方へ振り返った

 ――もう一人? 一体何なんだ?

 悟郎は、影を睨みつけた。

 

 その瞬間、悟郎の目は確かに真実を映していたが、悟郎はその光景を信じられなかった。理解できなかった。

 悟郎は、目と口とをこれ以上無いくらい開いて、そのまま止まっていた。

 影はそのまま、先ほどの影を追って闇に消える。

 

 ――まさか。

 ――だが、俺があいつを見間違えることは絶対に無い。

 

 そう、影は、悟郎が絶対に見間違えることの無い人物だった。

 

 影の主は、夜の闇より暗く、深く、黒く、妖しく光る長髪を靡かせ、同じ色の瞳を闇に向けていた。

 

 悟郎は疾走った。

 影を追い、闇を追い、己のためだけに、ただ全力で疾走った。

 そして突然、路地の角を曲がったところで、その光景は広がっていた。

 美しすぎる後姿が、もう一つの影に向かって仁王立ちしていた。

 悟郎がその光景を目にした次の瞬間に、もう一つの影は、どさりと崩れ落ちた。

 目を凝らすと、その影は肩から腰にかけて深い傷を追い、体中を鮮血に染めていた。

 たった今、影は殺されたのであった。

 

 悟郎はゆっくりと、はっきりと、小さな声で、呟いた。

 

「ミワ」

 

 悟郎の声に気付き、後姿はゆっくりと振り返った。

 その動作一つ一つが、ただ美しかった。

 髪が、彼女の動きに合わせて、揺れる。

 二人は見つめ合った。

 そして女は、真っ直ぐに悟郎の目を見て、呟いた。

 

「……悟郎?」

 

 闇の中で二人は対峙していた。

 男は息を切らし、女を見つめていた。

 女は右手を血に赤く染めて、やはり男を見つめていた。

「会いたかった、ミワ」

「悟郎? やっぱり、悟郎なんだね?」

 ミワは少し微笑みながら、悟郎に問い直した。

「ミワ、俺……、ミワに会ったら……その、俺は――っ」

 ミワは悟郎に笑みを向けた。

 近づき、そしてそっと左手を悟郎の右手に触れた。

「歩こっか」

 

 二人は悟郎のセーフハウスに入った。

 洗面所から、水の流れる音が聞こえてくる。

 悟郎はソファに座り、じっと前を見つめていた。

「ありがとう。ごめんね、手間かけさせちゃって」

「ああ、もう終わったのか」

 ミワの右手は、綺麗な白に戻っていた。

 悟郎の隣りに腰を降ろすと、ミワは話し出した。

「あの時、あんなに小さかった子供が、こんなに大きくなってるなんてね」

「六歳だったよ」

「そっか。あの時、年は聞いてなかったね」

 悟郎は、何を言えばいいかわからなかった。

「喉渇いただろう、何か飲むかい?」

 悟郎は立ち上がり、返事を聞かずにキッチンへ向かった。

 ミワは微笑んで、悟郎の後姿を目の端で追いながら言った

「うん。任せる」

 悟郎は冷蔵庫から瓶を二つ取り出し、ゆっくり戻ってきた。

「酒だけど、いいかな?」

「うん、ありがと」

 悟郎は瓶の蓋を開け、ミワに手渡した。

「ふふ、ありがと。座りなよ」

「ああ、うん」

 悟郎は再びミワの隣りに腰を降ろした。

 沈黙が流れる。

「美味いだろ。今じゃ、なかなか手に入らないやつなんだ」

「うん」

 沈黙。

「ねえ?」

「え?」

「さっきは、何言おうとしてたの?」

 ミワと対峙した時に、悟郎が何を言っていいのかわからず、言葉に間誤付いていたことを言っているのだと、悟郎は気付き、俯いた。

「いや、その……」

 やはり、何も言えない。

 自分は何を言おうとしていたのか?

 ミワに会ったら、言いたいことが山ほどあった筈だ。

 なのに、どうした。

 何故何も言えない。

「なぁに?」

「……ずっと、会いたかったよ」

 さっきから、これしか言っていない。

「悪い、俺これしか言ってない」

 自嘲気味に笑った。

「ううん」

 ミワの白い、温かい、柔らかな手が、悟郎の両手に乗せられる。

 悟郎は驚いて顔を上げた。

 目の前に、美しすぎる顔。

 目を逸らすことも、動くことも出来ない。

 ミワの顔が、ゆっくりと笑顔に変わる。

 瞳は、黒く……まさに漆黒に、濡れている。

 最高の笑みだった。

「そう言ってもらえて、嬉しい」

 悟郎は気付いた。

 何故自分が、二十五年間、この女を忘れることが無かったのか。

 何故自分が、二十五年間、この女に会いたいと思い続けていたのか。

 何故自分がこの組織に入り、この女のことだけを追っていたのか。

 何故自分が今こんなにも混乱しているのか。

 この女の、笑顔が見たかったのだ。

 この最高の笑みを、自分だけに、向けて欲しかったのだ。

 この目で、この鼻で、この手で、この肌で、この女を感じたかったのだ。

 悟郎は、何か言いたかった。

 しかし、言葉が思うように口から出ない。

 喉がうずき、目は揺れ、手は固まった。

 思いは、ただ唸り声に変わるだけだった。

 ミワは、悟郎の手に乗せている自分の手に、力を込めた。

「私も、会いたかったんだよ?」

 ミワの言葉が頭に入ってこない。

 ミワの言葉を疑うわけではない。ただ自分の前にある事実が、悟郎には信じられない。

「本当に?」

 聞き返すと、ミワはよりいっそう手に力を込めて、握り締めた。

「私も貴方に、ずっと会いたかったわ」

 頭の何処かで、何かが弾けた。

 他のことはどうでもよかった。

 ただ悟郎は、ミワを感じたかった。

 全身で、全霊で、ただミワを愛したかった。

 悟郎はミワの体を抱き寄せ、しがみつくように手に力を入れた。

 ミワは少し呻き声を漏らしたが、それはすぐに悟郎の唇によって消された。

 甘い、痺れに似た感覚が口から頭まで一気に突き抜ける。

 悟郎がミワに抱きついたまま前に体重をかける。

 ミワは驚くほど簡単に、仰向けに倒れこんだ。

 

「あれ、本当か?」

 悟郎は天井を眺めたまま、隣で寝ているミワに声をかけた。

「何?」

「俺に会いたかったって」

「なぁに、まだ疑ってるの?」

「疑ってるわけじゃない」

 それは本音である。ミワの言葉を、自分が疑う筈が無い。ミワの言葉は、全て信じている。

「疑ってるわけじゃないけど、あの時一度会っただけの、ただの子供に、二十五年間会いたいと思ってるなんて、普通ありえないだろ」

 隣で、ミワが動く音がする。

「じゃあ聞くけど、あの時一度会っただけの、ただの女に、二十五年間会いたがってる男の子なんて、普通いる?」

「ミワは……綺麗だ」

 悟郎が呟く。

「ありがとう。でも、それだけで二十五年間、ずっと会いたいなんて思ってたの?」

「……」

「ね」

 沈黙。

「ずっと、会いたかった」

「何度も聞いたわよ」

 

「なあ、聞いていいか?」

「うん」

 悟郎は数秒黙りこくった。そして再び、静かに口を開いた。

「ミワは、狼血か」

「どうしてそう思うの?」

「最も人間に近く、最も美しく、最も強い亜人」

 悟郎は一つ一つ確かめるように呟いた。

「うん。あたり」

「狼血っていうのは、年をとらないのか」

「あはは」

 ミワが笑う。

「お姉さんが若いままでいてくれてて、嬉しい?」

 ミワの柔らかい声の、一言一言が、悟郎の胸に刺さり、脳を痺れさせた。

「ああ」

「素直でよろしい。狼血が、どんな種族かは知ってる?」

「……『噛む』ってやつか」

「……それは知ってるんだ。そう、狼血は他の生き物を噛んで、体内にある、ある物質を注入することで、その生き物を狼血化することができるの」

「……で?」

「ちょっとスケールの大きい話するね」

「ああ」

 なんだかミワの言い方が可笑しくて、悟郎は笑ってしまった。

「それって、生物として、種として、数を増やすには確かに効率的よね。一方、種全体として長い間生き延びるために、普通は子供を産むわけだけど、そこが私達狼血は違ったわ。私達はね、寿命が、人間の何倍もあるのよ」

「……」

「それだけじゃないわ。大災害という過酷な環境を生き残るためには、出来る限り長い期間、最も肉体的に強くあらなければいけない。だから私達は、人間でいう二十歳代くらいの状態が、ずっと続くの」

「……なるほど。それで、あの頃と全然変わってないのか」

「嬉しいでしょ」

「ああ」

 沈黙。

「なあ、狼血に噛まれると、どうなるんだ?」

「……わかりやすく言うと、狼血化するわけだけど……身体的な機能が、全て狼血と同じになる。つまり、筋力や内臓の活動の、飛躍的な活性化。神経の反応速度も、何倍にもなるわ。あと、その影響で、人格が変わってしまうわ。ほとんどの場合」

「ほとんど?」

「普通の人間だった人が、ある日突然めちゃくちゃな体になったら、どう思うと思う? 普通は絶望したり、溢れる力を抑えきれずに、凶暴化したりするわよね。そういうこと。よほどの精神力が無い限り、そのままの人格を保つことはできないでしょうね」

「そうか」

 また、沈黙が流れた。

「……狼血が他の生き物を噛むのは、狼血化させる時だけじゃないんだ」

「どういうことだ?」

「狼血はね、他の生き物の血を吸って生きてる」

「っ!」

「血を吸わなくても、生きていられることは出来る。でもそれは、人間が必要な栄養分を摂らないで水だけを飲んで暮らすことに似てるわ。すぐ駄目になって、体の内側から、血を飲めという警告が発せられる」

「血を吸ったときも、その相手は狼血化するのか?」

「血を吸われるわけだから、ほとんどはそのまま死ぬわ。でも、狼血化させる物質が相手の体内に流れ込むはずだから、極稀に、生命力の高い生き物が、そのまま狼血化することがあるわ」

「血か……」

 沈黙。

「私は、血、嫌いだから――」

 悟郎が見ると、ミワが力無く笑った。

 悟郎の胸が、軋む。

「ごめんなさい、なんだか暗い話しちゃったね」

「いや、いい」

 沈黙。

「……ミワ」

「何?」

「いつまでも、ここに居られないのか?」

 心の何処かで、もう答えがわかっている質問。

 叶わない願い。

「……どうして?」

「……一緒にいたい」

「……狼血にはね、子供を産む機能は無いのよ」

「……」

「セックスはできるけど、それで子供を産むことは、できない」

「……それでもいい」

「ありがとう」

 ミワの声は、穏やかだった。

 ミワが起き上がった。

「でもお姉さんね、行かなきゃならないんだ」

 ミワが悟郎の方へ振り返り笑った。

「どうして!」

「え?」

「どうしてそんなに哀しそうな笑い方するんだよ! どうして俺に何も言ってくれない! 俺はお前のためなら、何だってする! 他のことがどうなっても構わない! ミワ――」

 ミワが悟郎を抱きしめた。

 白い腕、白い乳房、黒い髪が、悟郎に触れ、かすかに震えていた。

「ありがとう。でもね、行かなきゃ」

「……」

「お姉さんね、追われてるんだよ」

「誰に」

「狼血達に」

「っ?」

「理由があってね、お姉さん、独りなんだ」

「――」

「その狼血達とは本当は仲間だったんだけど、今は独りでさ。私は誰とも、一緒には居られない」

 ミワの、無理したような柔らかい声が発せられる度、悟郎の心は揺さぶられる。自分を許せない。悔しい。何も、言ってやれないことが。

「一人なら尚更――」

 その瞬間、何かが聞こえた。

 小さな音。かすかな、軋むような音。

「伏せて!」

 ミワが叫んだ。

 次の瞬間、何の音とも分からぬ轟音が、部屋を突き抜けた。雷のような、土砂崩れのような、爆発のような音。

 部屋のベランダ側の壁が弾け飛んだのも、次の瞬間だった。

 音に合わせて、コンクリートの壁が粉々に砕け散った。

 ガラスがケイ素の矢となって、悟郎達を襲った。

 鉄筋は捻じ曲がり、歪み、無惨に千切れている。

 一瞬にして、壁が消滅したのである。

「見つけたぞ。ミワ」

 コンクリートの埃の向こうから、声が聞こえた。

 男の声。

 姿は見えないが、確かにそこにいる。     

「悟郎! 逃げて!」

 ミワが叫んだ。

 悟郎はわけがわからず、埃の向こうを睨んでいた。

 そして埃が晴れ、悟郎の目には、はっきりと声の主の姿が見えた。

 粉々になった残骸の上で仁王立ちする、狼血の男であった。