プロローグ 夜
夜。
まだ六歳の少年は、幼いながらも、死を覚悟していたかも知れない。
せざるを得なかった。
現実が信じられなかった。
確かに、亜人と呼ばれる人がいるのは知っていた。でも、まさか人間を襲うなんて思わなかった。誰からもそんな話は聞かなかった。
少年は夜の闇を、風のように駆けた。全力で駆けた。死から逃げるために。瓦礫の山にぶつかり、転げ、血だらけになった。それでも、振り返らず走った。
が、それもすぐに終わってしまった。
瓦礫の山の、行き止まりに追い詰められてしまった。
少年は振り返り、自分を追っていた者の姿を見た。
良く見ると、姿かたちが人間ではない。人間に似てはいるが、所々、人間のそれとは違う部位があった。
目が違う。鋭く、肉食獣のように、瞳孔が縦に伸びている。黄色く光っている。
口だ。口も違う。人間なら、あんな牙なんかあるものか。
頭を見ると、角がある。もうわけが判らない。
とにかく、目の前にいる生物は、人に似た形をしてはいるが、自分を喰おうとしている野生の肉食獣だ。それは間違いない。
目の前の化け物の口が大きく開いた瞬間、少年は目を瞑った。
あまりに怖かった。怖すぎた。
もう、終わりだ。と少年は悟った。
酷く世界がゆっくりに感じられた。
化け物が走ってくる音が、酷くゆっくりに聞こえる。目は開けることは無かったが、気配の近づきが、あまりにもゆっくりだ。まるで時間の進み方自体が遅くなっているようだ。
ほら、だんだん遅くなる。
ほら、ほら……
ほら……
……止まった?
時間が止まった。
――何故? 僕はどうしたの? 生きているの? 死んでいるの? 化け物は? 怪我は? 瓦礫の山は?
様々な疑問が彼を襲った。そして少年は、ゆっくりと、時間の止まったようなゆっくりさで目を開けた。
信じられない光景が飛び込んできた。
――女だ。大人の女の人だ。
そこには、女性が立っていた。
ただ立っているだけではない。化け物を、化け物の顎を鷲掴みにし、もう一方の腕で化け物の腕を押さえ込んでいる。化け物の動きを、止めているのだ。
「あ、あ……?」
少年は目と口を真丸に開いたまま、声を漏らした。
女性がちらりとこちらを見た。
美しかった。
美しすぎた。
長い、漆黒の、夜の闇よりも黒い髪が風に揺れる。その前髪の隙間から、これも漆黒の、深く、深く輝く、濡れた瞳が少年を見つめていた。
そしてその黒を浮き立たせる、肌の白。
少年は息ができなかった。
女性が、微笑んだ。
すると女性は再び化け物に目を戻した。
――刹那、ひゅん、と風を切る音が聞こえた。
信じられない光景だった。
化け物が、縦に、頭のてっぺんからまっすぐ下に、斬られていた。
どす黒い血を噴出しながら、化け物は崩れ落ちた。
息をついた女性が、体ごとこっちを振り返った。
少年は、女性の右手に目をやり、真丸だった目をもっと丸くした。
真っ赤だ。いや黒と赤だ。これは、血だ。
女性の右手は、化け物の血でべっとりと染まっていた。
殺される――
少年は悟って、脚を引きずりながら後退る。
右手を朱に染めても、女性は尚美しかった。いや、余計に美しくも見えた。
女性が少年の前まで歩いてきた。
少年は、再び死を覚悟した。
女性は少年の予想とは違う行動に出た。
しゃがみこんで、少年の顔の前まで、自分の顔を持ってきた。
「大丈夫?」
声。
美しい声。
「は……い……」
そう返事するのがやっとだった。しかし、自分でも良く返事できたと、少年は思う。
「そっか。よかった」
目の前で、生き物を真っ二つにした者の声とは思えない。優しく、柔らかく、温かい声だ。
「本当はいけないんだ。勝手に他の亜人を殺したりしちゃ。勝手に人間を助けたりするのも」
女性は微笑んで言った。
「でも、なんだか君のことが放っておけなくてね」
くすりと笑って、女性が顔を近づけてくる。
女性の唇が、少年の頬に触れた。
「ふふ、私はミワ。今夜のことは、内緒だよ」
ミワと名乗った女性は、口に指を当て、おどけたように笑いながら言った。
「君の名前は、何て言うの?」
「それじゃあね」
ふわり、と音も立てずに、ミワは立ち上がった。
そしてもう一度、振り返った。
「あ、もし今夜のことを喋ったりしたら、お姉さん怒って……」
ミワは笑いながら、落ちていた木の枝を放り投げた。
「こうするからね」
ミワの脚が地面を蹴った。
脚は空中にある木の枝に向かって動く。
ため息の出るような弧を描いて、ミワの脚は闇を薙いだ。
ぽとりと落ちた枝は、縦に半分に割れていた。
「ふふ、冗談。それじゃあ、バイバイ」
ミワが跳んだ。
瞬きの間に、ミワは闇の向こうに消えた。
夜の闇だけが残った。
少年は、その美しすぎる女性を、忘れることは無かった。
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