第三話                         狼血

 

 数人の人影。

「アカが、死んだらしい……」

「アカがか。あいつは優秀な戦士だったはずだ」

「発狂したんだ」

「……そうか」

「我々が優秀な戦士を失うのは、これで二人目だな」

「……」

「どうした?」

「……いや」

「しかし、一人目の……あいつも、二十五年前のあのことが無ければ、まだここに居ただろうに」

「だがあいつは俺達の元を去った。それは事実だ」

「……そうだな」

 人影が、各々ゆっくりと何処かへ歩いていく気配がする。

 最後の一人が消えたとき、そこには、沈黙だけが残されていた。

 

 悟郎は対亜人特別機動隊の本部の受付カウンターにいた。

「……そういった理由があったので、紫藤由香里さんは、科研の方へ、移送されました」

「亜人科研か……。ありがとう。じゃあ俺はこれで失礼するよ」

「はい」

 自動ドアが開いて、閉じる。

 悟郎はため息をついた。

 腕には包帯が巻かれ、胸部は何か分厚いもので固められている。脚は片方微妙に引きずっている。

「亜人科研か。そう言えば、理沙のやつに、挨拶行くの忘れてたな。ついでだし行くか」

 悟郎は脚を引きずって、長い廊下を歩いていった。

 

「深峰さん、資料ここに置いておきますよ」

 長身の男が、手に持った紙の束をひらひらと動かして、机に置いた。

 それに、ちらりと目だけを動かして、若い女性が答えた。

「うんありがとう」

 深峰理沙は、コーヒーをすすりながら、モニターと睨めっこをしていた。

 男は彼女の様子を気にする風でもなく、自分のデスクへと戻っていった。

 と、ドアが開く音がする。

 ――昼前……こんな時間に誰だろうか。

 理沙がドアの方に目をやると、そこには見覚えのある人影が立っていた。

「悟郎さん!」

 理沙が悟郎のもとへ駆け出した。

「久しぶりだな、理沙」

「いつ帰って来たんですか? そんな話全然聞きませんでしたけど」

 理沙が抱きついてくるのを、悟郎が必死の形相で止める。

「ストップ。今日は勘弁してくれ。体中骨折で痛いんだ」

「ええっ、大丈夫なんですか? じゃあ尚更、私の熱い抱擁で治して――」

 悟郎は理沙の頭を押し付けて一定の距離を保った。

 悟郎の身長は百八十弱。その対比で見ると、理沙は随分小さく見えた。

 深峰理沙は、決して顔は悪くなかった。いや、間違いなく美人の部類に入っている。ぱっちりとした可愛らしい目に、軽くウェーブの掛かった茶髪。白衣の上からでもわかる、引き締まったボディライン。もちろん言い寄る男も少なくない。ただ、性格が少し変わっていた。

「えへへ、本当に、いつ帰って来たんですか? 教えてくれたっていいのに」

「昨日だ」

理沙が悟郎の全身を上から下まで眺めている。

「昨日! で、なんでそんなにボロボロなんですか?」

 理沙の顔が、驚いたり首を傾げたりと、ころころと変わる。

「話せば長くなるんだが、昨日任務があって、この様だ」

「悟郎さんをそこまで滅多打ちにできるヤツなんて、いるんですか?」

 悟郎は置いてあったソファまで歩き、どかっと座った。

「いたんだよ、すげぇのが……」

「あの……落ち込んでます?」

「別に落ち込んじゃいねぇさ。それはそうと、今日は挨拶しに来たんじゃない」

「え? なんですか?」

「紫藤由香里のデータを教えてくれ」

「え、なんで悟郎さんが彼女を知ってるんですか?」

「彼女を連れてきたのは俺だ」

「ええっ、なんと、私の知らない間にそんなことがあったとは……」

「いいから、教えてくれ。全部だ」

 その瞬間、彼女の視線が一瞬冷たく濁ったのを、悟郎は見逃さなかった。

 何か、あるのだ。

「わかりました。どうぞ、こちらへ」

 悟郎はモニターの前に案内された。

 

「悟郎さん、『狼血』ってご存知ですか?」

 理沙の顔が変わっていた。

 先ほどの少女のようなあどけない顔から、驚くほどに凛々しい顔へと。

「……昨日思い出したよ。狼血。数ある亜人種の中で、最も人間に近く、最も美しく、最も強い種族。狼血の亜人が、人類の進化の形だと唱える学者も多いらしいじゃねえか」

「ええ。その狼血です」

「で?」

「紫藤由香里さんが襲われたのは、狼血の亜人ですね?」

「ああ」

「実は、今まで狼血の亜人というのは、ほとんど人間の手に落ちたことは無く、狼血の情報は、ほとんど皆無だったんです」

「ふうん、じゃあ俺が倒したのは、凄く珍しい例だってことか」

「はい。悟郎さんが倒した亜人と、紫藤由香里さんを、うちで調べたところ、次のような結果が出てきました」

 理沙がキーを叩くと、画面には様々な数値と、ある図が表示された。

「……で?」

 無論、この画面に表示されたデータだけでは、悟郎には何のことやら解りはしない。

「単刀直入に、かつ簡潔に説明します。狼血の亜人というのは、人間を噛む事で、同じ狼血を増やせるんです」

「っ!?」

「今まで、狼血の死体は何度か発見されたことがありました。が、いつも不思議に思っていたんです。大災害が起こったのが四十六年前。そこからの短時間で、これほど強く、これほど人間の心の中に名を刻み付けるには、よほどの数がいて、知名度が無いとできないと。実際、他の亜人種は、種族や系統も、一般人や学者は、ほとんど知りません。しかし、狼血だけは別です。でも、突然変異的に起こった亜人現象。それが子供を産んで繁殖しただけで、短時間でそれほどまでに増えるでしょうか? でもさっき、その答えがわかりました」

「狼血は、人間を噛み、仲間に加えることで、その種の生命を繋いでいっているだと」

「……」

「そうして、狼血は四十六年という短い時間で、人間の意識の中に名を刻んできたんだと」

「じゃあ、狼血はもっと増えるって言うのか?」

「……可能性としては、それも十分考えられます。しかし今までの数値を見る限り、狼血の亜人が人間を狼血化している数は、それほど増加はしていないようです。それは確認済みです」

「……そうか」

「はい」

「……まるで、昔話の吸血鬼じゃないか」

「はい」

 不意に、違和感が悟郎を襲った。

 心の水面が、ざわつく感覚。

「……おい、待て」

 嫌な予感がする。

 何だこの不安は。何だこの嫌な汗は。

「理沙。どうして狼血に、こういった習性があるってわかったんだ?」

「……」

「理沙」

「紫藤由香里さん」

 言うな、理沙。

「彼女は……」

 言うな。言わなくてもわかってる。わかってしまった。言うな。

「狼血の亜人に、首を噛まれていました」

 ほら、やっぱり。

 

「狼血化、治せるのか?」

「紫藤由香里さんの体内に、人間を狼血化させる、ウィルスが発見されました。どうやら狼血は、人間を噛むことでこのウィルスを注入し、仲間にするんだと考えられます」

「――」

「そのウィルスが、今、彼女の体を徐々に蝕んでいっています。彼女の場合、薬を投与して身体活動のスピードをかなり遅くしてるので、あくまでも、ゆっくりです。他の、意識のある人ならもっとスピードは速いですが」

「それで?」

「今そのウィルスを研究し、ワクチンを作成中です。完成の目処は立ってますから、おそらく心配ないと思いますよ」

「よかった……」

「ただ、ワクチンが完成するまでは、症状を抑える鎮静剤を服用して頂きます。注射が一番効くのですが、本人が嫌がると思って、錠剤にしてあります」

「そうか、わかった」

「どうします?」

「何が?」

「紫藤さんが目覚めたら、お呼びしましょうか?」

「ああ。そうしてくれ。一応今後の方針を決定するためにも」

「わかりました」

「じゃあ、今日はこれで」

 悟郎は立ち上がって、また脚を引きずりながら扉へ向かった。

「あ、悟郎さん!」

 その後姿を追って、理沙が叫んだ。

「ん?」

「なんだか言う順番が逆になっちゃいましたけど……お帰りなさい」

「おう、ただいま」

 扉が、開いて、閉じる。

 

 悟郎は第三部隊の部屋に戻った。

「悟郎か。紫藤の様子はどうだった?」

「ああ、後で話すよ。今はちょっと疲れてな……」

 悟郎は椅子に座って、天井を仰いだ。

「そうか。それは別にいいが、悟郎、怪我は――」

 返事が無い。

「ん?」

「……寝てるのか」

 

 悟郎は走った。

 紫藤を襲ったあの狼血の亜人が、襲ってくる。

 全身血だらけの亜人であった。

 美しい顔が、狂気に歪んでいる。

 悟郎は逃げた。

 自分も、全身に傷を負っている。

 痛みも麻痺するほどの傷であった。

 ――この怪我じゃ、到底勝てない。

 悟郎は全力で走ったが、それでも逃げ切ることはできなかった。

 悟郎が亜人に頭から噛みつかれそうになった瞬間、時が止まった。

 いや、亜人の動きが止まったのだ。

 悟郎を掴んだはずの腕が、肘の先から地面に落ちている。

 そして、悟郎と亜人の間に立っている、女性の姿。

 漆黒の長髪。黒曜石のような瞳。真白な肌。

名前は今でもはっきり覚えている。

 助けてくれるのか。

 会いたかった。

 二十五年間、一度も記憶から消えたことは無い。

 

 耳を突き刺すようなアラーム。

 悟郎は跳ね起きた。

「ん、ああ? ここは? 今、何時だ?」

 寝ぼけて時計の文字盤を眺めると、七時四十分。

「朝……か?」

「夜だ」

 久我の声のした方に目をやると、久我がコーヒーカップを二つ持って歩いてきた。

「まださっきと同じ日付だ、安心しろ」

「そうか」

「寮の自室で休んだらどうだ? お前は十分仕事をしたし、今は前線に出れるような体じゃない」

「ん、ああ。まあ休ませてもらうよ。後で。あれ? おれソファなんかに寝てたっけ?」

「お前が寝ていたのは、自分の事務用椅子だ」

 久我が悟郎の前にコーヒーカップを差し出す。

「ってことは、ははは。すまねえな、シゲ」

 悟郎がコーヒーを受け取りながら笑う。

「別にお前は軽いからどうってことないが」

「いや本当お前は力だけは化け物じみてるよ」

「それはそうと、紫藤の話だが」

「ああ、話すよ」

 悟郎は昼間の話を、一つ一つ、整理しながら話し始めた。

 

「そうか、そんな事が、な」

「ああ、正直俺もショックだったけど、ワクチンもできるし、心配ないそうだ」

「それが効けばな」

「効くよ。あの深峰理沙ってやつは、天才さ。あんな見た目と性格してるから、そうは思えないけどな。まあだからこそ、対亜人種特別科学研究課、亜人科研なんてところで働いているんだろうがな」

「なら、いいんだがな」

「ああ」

「ところで悟郎、その紫藤だが、目覚めたらしいぞ」

「早く言えよ」

 

 悟郎と久我は、先ほどの理沙のいた科研の研究所に入っていった。

 そこには、ソファに座る紫藤由香里の姿があった。

「あ、悟郎さん」

「おう、由香里、元気になったのか?」

「はいっ、おかげさまで。ありがとうございました」

「おう。元気そうで何よりだ」

 二人がソファに腰を降ろした瞬間、理沙は二人に目配せした。

 悟郎は頷いた。

「紫藤由香里さん」

 理沙が切り出す。

「はい?」

「大事な話だから、よく聞いてね」

 

「話は、わかりました」

 由香里の反応は、悟郎達の予想に反していた。

 もっと取り乱すと思っていたのだ。

「そんな感じはしたんです。昨日、悟郎さんたちに助けてもらった後の車の中で。自分ではどうすることもできなくて、とにかく体がおかしくて」

「すまないな。気付いてやれなくて」

「いえ、そんな、悟郎さんは……っ」

「でも心配しないで。もうすぐワクチンが出来上がるの。それさえあれば、あなただってすぐ元通りになるわ」

「深峰さん、ありがとうございます」

「ええ、任せてちょうだい!」

「……で、由香里。どうする? 自分の家に帰るか、それとも俺等の下でしばらく暮らすか。もちろん、由香里が好きなようにしろ。家族だって心配するだろうし、俺等のいるここはいわば軍の施設みたいな所だ。決して居心地がいいとは言えない」

「私、もし迷惑じゃなかったら、悟郎さんと一緒にいてもいいですか?」

 返事は早かった。どうして由香里がそう思ったのか、悟郎にはわからなかった。

「そりゃあ構わないけど、何でだ?」

「私、家族はいないんです。それに、もし自分が危険な状態にあるんなら、ここにいる皆さんのほうが、頼りになるし。邪魔でなければ……ですけど」

「まあ、由香里がそう判断したなら、俺は拒みはしないよ。ただ、問題はどこに寝泊りするかだよな。俺たちが守れなきゃ意味無いし。ただ俺の部屋ってわけにもいかないし」

「悟郎、たしか俺達の寮に一つ空き部屋があったが、そこを使えばいいんじゃないのか?」

 久我が思い出したように言った。

「ああ、あったな確かに」

「ただ問題は、紫藤が男性寮にいて居心地が悪くないか、ということだ」

 悟郎と久我は心配そうに由香里を見た。

「私、そこがいいです!」

 由香里はにっこりと微笑んで返事をした。

「うん、思ったより元気そうだ」

 悟郎も笑った。

 

「ここが俺等の住んでる寮だ。あ、こっちこっち」

 悟郎の跡に由香里、続いて久我という順番で、寮の廊下を歩いていく。

「男臭い所だけど、まあ我慢してくれ。年頃の女の子には悪いけど」

「いえ、大丈夫ですよ」

とりあえず、俺の部屋でビール……いや、お茶でも飲むか」

 

 一時間ほど経っただろうか。

 由香里は悟郎の膝の腕、眠ってしまった。

「参ったなあ……」

「まあいいじゃないか。さてと、俺は部屋に戻るぞ」

「おい。まてよシゲ」

「し。起こしてやるなよ。静かに」

 久我が小さく言う。

 こういう心遣いがこの男のいい所だと、悟郎は思う。

「あ、ああ……だけど、こいつどうしろって言うんだよ?」

「とりあえずそのままで居てやる事だな。彼女も、生きるか死ぬかの経験をしたんだ。きっと疲れているはずだしな」

「おう……」

「じゃあな」

「ああ、おやすみ」

 久我が、小さくドアを開け、隙間から出て行った。

 悟郎は一人、部屋に残された。

 夜ひとりでぼーっとしていると、気分までぼーっとしてくるもののようだ。悟郎はだんだん眠たくなって来た。

「ん」

 膝の上で、由香里が小さく声を出した。。

 悟郎はくすりと笑って、由香里の頭を二、三度、撫でた。

 

「悟郎、さん?」

 その声が聞こえたのは、悟郎が目を瞑って舟を漕いでから数分が経った頃だった。

「ん……ああ、目が覚めたか?」

 悟郎が目を擦る。

「あの、ごめんなさい、私寝ちゃったみたいで」

「ああ、いいよ。俺ももう寝るけど、由香里も寝ろ」

 由香里の方を見ると、何か言いたそうに目を泳がせていた。

「あの、今晩だけ、ここで寝ちゃ駄目ですか?」

「はあ?」

 悟郎は目を丸くした。

「怖い夢、見るんです」

「バカヤロウ。もう少し自覚持てよ。由香里、お前何歳だよ」

「十六です」

「十六にもなった女の子は、怪しい男と同じ部屋では寝ちゃ駄目なんだよ。何されるか分からないぜ」

「悟郎さんは、何かするんですか? 私に」

「え」

「だって、そういうことじゃないですか」

「……」

「……」

「……わかったよ。この部屋で寝ろ」

「はぁーい」

「まったく」

 結局、悟郎が床に、由香里がベッドに寝ることになった。

 悟郎はしぶしぶ寝るしかなかった。

「悟郎さん?」

「ん?」

「どうして悟郎さんは、特別機動隊に入ったんですか?」

「なんだよ、突然?」

「聞きたいんです」

 沈黙。

「悟郎さん?」

「……さあな、忘れちまったよ」

 悟郎は寝返りをうった。

 床の感触が、背中に硬い。

「悟郎さん」

「ん?」

 悟郎が返事をすると、由香里がベッドから起き上がって、悟郎の下へ小走りにやって来た。

「どうした?」

 そう言った悟郎の頬に、由香里の唇が触れた。

 由香里は顔を赤くして、ベッドまで走って戻った。

「何してんだよ、お前は」

 悟郎は半分呆れて再び寝返りをうった。

「悟郎さん、助けてくれて、本当にありがとう」

「ああ」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 悟郎は手を伸ばして、豆電球の明かりを、消した。