第七話
月夜に泣く吸血鬼
「待ってたぞ、カズマ」
「ふざけるな」
カズマが一歩を踏み出す。
「ミワは」
脚が止まる。
「ミワはどうした」
「俺がどうすると思うのだ」
「殺してないよな」
「殺す筈が無いだろう。俺はミワを愛している。死ぬのは悟郎、貴様だけだ」
「何故だ、カズマ」
「何がだ」
「何故お前はミワの傍に居てやらない。あいつを愛しているなら何故だ」
カズマが再び脚を動かした。
「貴様に言う事は何も無い」
「駄目だ」
カズマの動きは止まらない。
「答えろ! カズマ!」
「――」
カズマの動きが止まる。
「貴様に――一族の重みが解るはずも無い」
カズマの顔が、苦痛に歪んでいる。心の、苦痛に。
「貴様は所詮、ただの人間でしかないのだ。貴様には、ミワの苦痛は解らない――!」
カズマが、叫ぶ。
「貴様にいう事は何も無い。――覚悟しろ」
カズマが再び動き出す。
「いや、まだだ。これは、俺とお前だけの問題じゃない。俺が死ぬにせよ、お前が死ぬにせよ、どちらが生き残ろうと、ミワの傍で決着をつけるべきじゃないのか」
「――」
長い沈黙の跡、カズマは踵を返して、呟いた。
「ついて来い」
廃墟と化したビル。
窓ガラスなどは一枚も無く、剥き出しになったコンクリートと鉄筋のスクエアを、無数の穴が通っている。
二人の足元にも、コンクリートの破片が無数に散っている。
今の日本に、このような場所はいくらでもあった。
その一室で、悟郎は立っていた。
不意に、足音がする。
「悟郎!」
――ああ。
自分が、一番聞きたかった声。
全てを包み込む柔らかい声。
しかしその声も、今は、悲痛の叫びに変わっていた。
「ミワ!」
違う部屋へと通じるその入り口の向こうにある闇の中から、カズマと、その手に抱えられているミワの姿があった。
「悟郎、どうして」
カズマがミワを放すと、縄で縛られたミワは、どさりと地面に倒れこんだ。
カズマは屈みこみ、鋭い爪でミワを縛っていた縄を切り裂いた。
「悟郎、貴様の望み通りだ。ここで貴様を殺してやる」
「駄目、悟郎!」
ミワの声はかすれていた。
見ると、ミワは衰弱しきっていった。
頬の肉は削げ落ち、髪や眼からは、生気が抜け落ちている。
「余所見をするな」
カズマが地を蹴った。
その脚がそのまま悟郎の眼前に蹴り上げられる。
ひゅん、という高い音を立ててカズマの脚が空を凪いだ。
蹴り出した右足をそのままに、左足が下から襲ってくる。
悟郎がスウェーでそれをかわすと、その動きにあわせるように拳が飛んできた。
悟郎の体が後ろに弾け飛ぶ。
「やはりお前はその程度なのだ。お前は、死ぬ」
「確かに、狼血の動きだな。だが俺も死ぬためにここにいるんじゃない」
カズマの連打が悟郎の全身を襲う。
カズマの右腕が、やはり風きり音を立てて悟郎のボディに叩き込まれた。
悟郎は寸前で身を翻し、拳を握り締めた。
みしみしっ、と悟郎の腕の筋肉が硬質化する音が聞こえる。
「がおっ!」
悟郎が吼えた。
悟郎の右腕はカズマの顎を大砲のような音を立てて打ち抜いた。
カズマの顔が左右に揺れる。目線が明後日の方向に飛び、カズマはその場でバランスを崩す。
悟郎はそのまま一気に叩き込んだ。
右。
左。
右。
膝。
膝。
右。
しかし突然、カズマの手が悟郎の顔面を捉えた。
嫌な音がして、悟郎は顔を仰け反らせた。
カズマが、猛攻が一瞬緩んだ隙に、後方に下がり狼狽する。
悟郎の顔面からは血が溢れていた。
「貴様……人間か」
カズマが口から血を吐き出した。
「お互い様だ」
悟郎が顔面の血を拭う。
切れたのは左の額と頬の一部だけの様だ。目は無事だった。
「何故貴様はそこまでする」
「決まってるだろ、ミワが好きだからだ」
「貴様のその苦労は、報われることは、絶対に無いのだ」
「何を言っている?」
「貴様は知らなくて良いことだ。とにかく貴様はここで死ぬ」
カズマの蹴りが悟郎を襲う。
悟郎は奇襲攻撃に、再び弾け飛んだ。
――やっぱり。
悟郎は心の中で呟いた。
――何故俺の怪我が軽かったのか。何故俺がこうして戦えているのか。何故こいつが一番の戦士でないのか。やっぱり理由はこれだった。
「何を笑っている」
カズマの容赦無い一撃が悟郎の顎を下から捉えた。
ぱぐっ、と音がして、悟郎が倒れこむ。
「うおらっ!」
倒れこみ様悟郎はカズマの脛に蹴りと叩き込んだ。
カズマの顔が苦痛に歪む。
――一瞬だ、一瞬しかない。
悟郎が立ち上がり、カズマを投げ飛ばした。
カズマが空中で体勢を整え、数メートル向こうに着地する。
「死ね! 悟郎!」
カズマの脚が、アスファルトを蹴った。
間違い無くこの瞬間、カズマのスピードが最大点に達した。
悟郎までの距離を一直線に飛んでくる。
――いつもと同じだ。
風景が全て、ひどくゆっくりに感じられた。
カズマの拳が、悟郎の顔面を打ち抜く角度で振り下ろされる。
同時に蹴りが下から悟郎の体を突き抜けるラインで放たれる。
瞬間、銀色の閃光が走った。
「馬鹿な」
カズマが呟く。
悟郎の手には、鋭く、妖しく光る日本刀が握られていた。
「何故だ。確かに手応えはあった」
悟郎には、勝算があった。
自分が速さでは到底及ばないこの亜人はしかし、決定的に”力”が足りない。
猛攻も、見た目ほどのダメージは無かったのである。
それは、先日の奇襲の時、自分が重症を負わなかったことが照明している。
悟郎は相手の動きが完璧に読める、相手が一直線に進んでくる瞬間に、その攻撃をわざと受け、相手の動きを止めた状態で、隠していた刀で一撃を叩き込んだ。
「カズマ」
カズマが悟郎を睨みつける。
「俺の勝ちだ」
カズマが膝から崩れ落ちた。
カズマの場所は見る間に血の池に変わっていった。
悟郎の顔は、決して、晴れやかでは無かった。
自分は、また、人を殺してしまったのだ、と。
その感触は、何年経っても、慣れてしまえるものではない。
突然、悟郎の膝が揺れる。
「だが、俺も限界だな」
悟郎は仰向けに倒れた。
倒れたら、絶対に起き上がって来られない倒れ方というものがある。
悟郎のそれは、まさしくその倒れ方だった。
「悟郎っ!」
ミワが駆け寄って来る。
「悟郎、悟郎」
悟郎の上半身を持ち上げ、必死に揺すった。
「おい」
小さな声が聞こえる。
「あんまり揺らすんじゃねぇよ、痛い」
そこには、悟郎の子供のような笑みがあった。
「悟郎っ!」
「おう」
「悟郎、よかった、悟郎」
「聞こえてるよ」
「うん、うん、悟郎」
ミワの目からは涙が溢れた。
美しい雫が、ミワの頬を流れる。
それが悟郎の首筋に滴り落ちた。
どくん。
――嫌。
どくん。どくん。
――駄目。
ミワが震える。
「ミ、ミワ、どうした?」
悟郎が下から見上げると、ミワが悟郎から飛び退いた。悟郎の頭が地面に落ちる。悟郎が小さな呻き声を上げた。
「だ、め。悟郎――逃げ、て」
「ミワ!?」
悟郎が起き上がる。がくがくと膝が震え、全身が悲鳴を上げた。
「わた、しの中の、血が――悟郎の血を、欲しがってる」
ミワの言葉、カズマの言葉が頭を過ぎる。
――血を吸わなくても、生きていられることは出来る。でもそれは、人間が必要な栄養分を摂らないで水だけを飲んで暮らすことに似てるわ。すぐ駄目になって、体の内側から、血を飲めという警告が発せられる。
――お前がいるから、血を飲みたいという本能を押さえつけ身をすり減らし、迫り来る影の恐怖に怯えながら生きたのだ。
「おい、ミワ!」
「駄目、悟郎。止められ、ない」
「ミワ、どうして――! どうして今まで血を飲まなかった! どうして――」
二人の顔は涙と、苦痛からの汗で歪んでいた。
と、ミワが悟郎に笑みを向けた。
それはいつもと同じ、美しすぎる笑顔だった。
――ミワ、何故だ。何故お前は、そんな顔が出来る。孤独という闇に閉じ込められ続け、血を飲まず、体と心をボロボロにして、それで何故そんな笑顔を俺に向けてくれるんだ。
「悟郎、貴方を好きだった。ずっと。貴方にはこのままで生きていて欲しい、だから、逃げて――」
びくん、とミワの体が跳ねる。もう限界なのだ。精神も、体も。
「あぐ、ああっ、ご、ろう」
「ミワ!」
「ほん、とに、止められない。私の体が、死ぬのを拒むから、血を吸わないと、だめだからって、わたしを、中から蝕む、の――」
悟郎が目を伏せる。
――貴方にはこのままで生きていて欲しい。
ミワの声が悟郎の心を責めた。
――ミワ、ミワ、ミワ……
ざう、と悟郎が立ち上がった。
――ミワ。
突然ミワが高く喘いだ。
そして刹那、そこに沈黙が走った。
ミワが跳ね起きた。
そこにいるのは確かにミワだったが、もう悟郎の知るミワではなかった。
目の瞳孔は開ききり、顔は苦痛に歪んでいる。
口からは鋭い牙が覗き、同じように鋭い呼気が吐き出されている。
そこにミワの笑顔はなかった。
ミワが牙を剥き出しにし、悟郎に飛び掛った。
スローモーション。
ミワの体が宙に浮いている。
数メートルの高さ。人間に跳べる高さではない。カズマですら、それは無理だった。
ミワの細い肉体が、悟郎目掛けて降ってきた。
悟郎は咄嗟の動きで、刀を斜めに滑らせて、ミワの攻撃を防いだ。
全身が悲鳴をあげた。
――耐えられるのは、後一撃。
再びミワが床を蹴った。ミワの姿が消えた。
横の壁だった。横の壁をミワは走り、もはや獣じみた顔で、悟郎の眼前に迫った。
完璧の間合い。
ミワが悟郎に噛み付くことが出来る間合いでもあり、また、悟郎の刀がミワの体を一閃できる間合いであった。
悟郎の頭の中で、ミワの言葉がまた蘇る。
――貴方にはこのままで生きていて欲しい。
刀身が煌いた。
「な、ぜ――」
悟郎は仰向けに倒れていた。首筋からは血が流れ出ている。
呟いたのはミワであった。
牙と口が血で真っ赤に染まっている。
「悟郎――? ねえ、悟郎?」
ミワが力無く、悟郎を揺すった。その度に悟郎の首から血がごぽ、と流れ出たので、ミワは慌てて手を止めた。
「う」
小さな呻き声。
聞こえないほどの呻き声が、ミワの耳には届いた。
「悟郎!」
叫ぶ。
悟郎がゆっくりと目を開ける。その目は灰色じみて、生気が抜け落ちていた。
「ミ、ワ」
「悟郎、あの瞬間、どうして刀を手放したの? どうして私を斬ってくれなかったの?」
ミワの顔が涙でくしゃくしゃになっている。
悟郎の手が、そっとその頬に伸びた。
頬を伝う涙が、悟郎の指で拭われる。
「ご、ろう?」
「よかった。いつもの、ミワだ」
「何言ってるの!? どうして生きてくれなかったの!?」
「俺は、ミワが生きてる方が良い」
「馬鹿っ、貴方が死んで、私はどうなるの!? また独りで生きろって言うの!?」
「ゴメン。本当は、二人がよかったんだけど、どっちかしか無理だったから、さ」
「こんなの、嫌だよ」
「ゴメン、何か言いたいのに、何を言ったらいいかわからないけど、とにかく生きてくれ」
「そんな、自分勝手すぎるよ」
「自分勝手はお互い様さ」
「悟郎、ねえ、嘘でしょ悟郎」
「……ミワ」
「何?」
「俺の二十五年間生きた理由、言ってなかった。この組織に入った理由も――。ずっと忘れたままにするつもりだった」
「何なの?」
「俺は、ミワの笑顔を見るために生きてきた」
「何言ってるのよ?」
「なあ、笑ってくれよ」
「――悟郎っ」
ミワの顔が、笑顔に変わる。
涙で、鼻水で、顔がくしゃくしゃになっていた。ひっく、ひっくと啜り上げている。
「ねえ、悟郎」
「ん」
「死になんか、しないよね? 私と一緒に生きるよね?」
「――いや」
「どうして!」
ミワの怒声が、悟郎の言葉を消し去った。
「どうして、安心させてくれないの。どうして、大丈夫だ、って言ってくれないの。どうして笑って抱きしめてくれないのよ」
「嘘は嫌いでね」
「悟郎ぉ」
「とにかく、生きろ」
「ごろ――」
「ミワ」
今度は悟郎が遮った。
「俺を愛してるなら、俺の言う事を聞いてくれ。俺はミワを信じてる。ミワのためなら何だってする。ミワももし同じ気持ちなら、俺のために、生きてくれ」
「悟郎」
「な?」
「わかった」
「よし」
「……ねえ、悟郎、私悟郎のために生きるから、最後に笑ってよ」
ミワが涙で溢れた目を擦って悟郎の顔を見た。
悟郎は目を閉じていた。
「ねえ、ねえってば……」
沈黙。
ミワは立ち上がった。
そして悟郎に振り向きもせず、そのまま廃墟の窓から、夜空に飛び去った。
夜空に、小さな水の粒が散る。
まるで宝石のようにきらきらする水滴は、そのどれもが、寒そうに白く光を放つ月を映し出していた。
黒い髪を靡かせた女は、満月の光を背中に浴びて、夜の闇に消えた。
女の表情は見えない。
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